見出し画像

一本の牛乳と松尾さん

「もうさあ、困っちゃうよね。チューハイ一本だよ?毎日買ってくんだよ?」

店員さんは、目をしょぼしょぼさせながら愚痴る。

「…まとめて買ってけばいいじゃん?」

うんうんと頷くだけの松尾さん。
どうやら、毎日チューハイを1本ずつ買いに来るお客さんのことを怪訝に思っているみたいだ。
たしかにスーパーの店員さんとしては、まとめて箱で買ってくれた方が良いのだろう。

「彼は暇なのかね…?」

…松尾さんは、その「彼」に、大いなるシンパシーを感じていた。
かく言う松尾さんも、カゴにはいつも牛乳一本とアイスクリームくらいしか入っていないからだ。

松尾さんの自宅のはす向かいには、24時間営業のスーパーがある。
自宅での仕事が朝方までかかったとき、その日はスーパーに寄ってから寝床につく。
疲労困憊なはずなのに、なぜか、足が向いてしまう。

いつも深夜に働いている店員さんが

「お、これで終わり?それともこれから?」
と私の仕事のスケジュールを尋ね、

松尾さんが「これで終わりです」

と答えるのが決まりだ。
松尾さんは一人暮らしなので、このやり取りが、ちょっと嬉しい。

その店員さんが店に立っていると、なぜかみんな立ち話をしてしまう。
そして、先客のだれかがレジで話に花を咲かせていると、買いたくもないお菓子コーナーで時間をつぶす。

去年、店員さんが理由があって1週間店に出なかったときには、「○○さんはどうしたの?」と心配する声が絶えなかったそうだ。

とはいえ残念なことに、
松尾さんは、生鮮食品は、駅の近くの大きなスーパーで買ってしまう。価格の安さには、どうしても抗えない。
それでもこの店で何か買いたくなってしまうのは、
牛乳やアイスクリームだけでもこの店で買うのは、
この店での会話が心地良いからだろう。


先に登場したあの人の、毎日一本のチューハイは、
たぶん、この人に会うためである。

先週の月曜日、お昼の時間帯に、その店員さんがレジに立っていた。
おかしいな、と松尾さんは思った。店員さんは、「深夜の人」なのだ。

「残業ですか?」

その疑問は、一瞬にして解決した。

いつもは商品でいっぱいの棚はからっぽで、その代わりに段ボールがたくさん積まれている。
数人のスタッフが、忙しそうに品出しをしていた。


「もうほんと、いやになっちゃうよね〜」
目をいつも以上にしょぼしょぼさせる店員さん。


私も、夜勤明けで眠い目をしょぼしょぼさせながら言う。
「ほんと、大変ですね…。ありがとうございます…。」

「うん、ありがとう。じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

松尾さんは、大きな感謝の心とともに帰宅し、寝床についた。


翌日。
松尾さんは冷蔵庫から牛乳を取り出して、残りが少ないことに気付いた。

あの店員さんに会いに行くがてら、買いに行こうかと思ったけど、、やっぱりやめた。

東京にも、大切にしたい場所や日常ができてしまったことに、松尾さんは気付いた。


はやく、はやく、牛乳一本とアイスクリームだけのためにスーパーに行ける日を、
待ち遠しく思う松尾さんである。