「マニタ書房」と「プリニウス」

「マニタ書房」と「プリニウス」その1

7月15日に、編集業を営む國松嬢と武藤嬢と連れ立ち、神保町の「マニタ書房」に行ってきました。
「マニタ書房」は、特殊なカテゴリーに仕分けされた棚で、一部界隈に有名な古本店です。

どのように特殊かというと「極端配偶者」という分類で、「わたしの夫はマサイ族」というような本が並んでいる感じです。

一歩店内に入ったときから、テンションがわー!といきなりMAX!
「マニタ書房」に集められている本たちは、現在は大人になったわたしたちが子どもの頃に、図書館や本屋や親や親せきの書棚の前で、え、これなんだろう?と好奇心が赴くままに手に取った、お勉強のためでも、ひまつうぶしのためでもない、子ども向けに書かれているわけでもない、少し背伸びして、大人の世界(戦争、人種差別、セックス、コンプレックスなどなど)、またはこの世界の真理や謎(UFO本や未確認生物本、心霊本などなど)に近づく!という興奮のための本。

店を出てすぐの路上で、武藤嬢が「わたし、こういう仕事(編集・本作り)につきたかったという原点みたいなものが、全部あった」と言い出しました。

その瞬間、雷に撃たれたような衝撃が。

そうか!「マニタ書房」って、子どもの頃の「知りたかった私」に戻って、「これを読めば知りたいことが、書いてあるはず」という本に対する興奮がよみがえってくるんだ。ばかだったなーわたし、でも気持ちよかったなー、あの頃…。

店主のとみさわさんによる、子ども時代の「知りたい気持ち、わくわくする気持ち、期待してしまうどうしても」の視点を崩さない仕入れのセレクトが素晴らしすぎます。

そしてその夜、偶然にも、とり・みきさんとヤマザキマリさんの合作による古代ローマの変人伝記マンガ「プリニウス」を読みました。まさに知識でこの世界をまるごと把握しようとした男の物語です。本好きの私たちの幼少時代の知識欲を何万人分か集めてこねて団子にして、そのまますくすくと怪物のように育ち、古代ローマ人の姿を借りたのが、プリニウスその人です(たぶん)。

(続く)


「マニタ書房」と「プリニウス」その2

「プリニウス」は、ヤマザキマリさんととり・みきさんというふたりの漫画家の合作で、古代ローマの博識おじさん、プリニウスという人物を主人公にした作品です。生きている博覧会みたいな人物で、なんでもよく知っているし、なんにでも興味を持つ好奇心の塊みたいな、すげー人物であるらしい。

で、マニタ書房来訪の後、そこで購入した古本というよりは、マニタ書房に入場するための入場券の半券みたいな記念の3冊の古本をすぐには読まないことにして、その夜は、新刊の「プリニウス」を読むことに。

画面の密度が、しょっぱなも読み進んでも読み終えても、とにかくすごくて、ため息の連続だった。ページを開くたびに、うわああっと思い、読み終えた感想は「すごい本」だった…。なんだかよくわからないが、ふたりの漫画家が、自分の表現したい世界を一緒に作れる相手と出会いクォリティの高さのタガが外れて、ブチ抜けている。

たぶんひとりで描いているときは、掲載誌を通した読者に向けているものが、合作という形式で、ふたりの作家の間を原稿が(データで)やりとりされることで、作家である相方への信頼と喜び(うまいでしょ、みてみて!が止まらなかったんだね)で、特に構図と作画の素晴らしさはインフレを起こしている。
リングで好勝負を繰り広げる、レスラーふたりを見るような興奮に包まれる読書体験だった。

「もうどっちも勝たなくていい、すごいもの見せてくれてありがとう」

ヤマザキマリさんは、お目にかかったことはないが、とり・みきさんと似た匂いがする作家さんだ。他者との群れとは交わっていても、一定の距離感、客観性を持ち続けている。その裏には、途切れることのない人間やこの世界に対する愛情を深くもっていて、その愛情を適切な箇所にバランス良く切りわけるために、何かに強く一方的には肩入れしない。(作品がだよ)

情熱や愛情の示し方、つまり作品の構築の仕方が、日本の「マンガ」ではないふたりだ。ふたりとも、代表作はギャグ作品で、ギャグ作家ならば、この一方的に何かに肩入れしないという性質は、最高のパフォーマンスを発揮する。
けれど「プリニウス」は、ギャグマンガではないので、日本のなにかに強く肩入れして、問題定義と経過と解決を探るというわかりやすいドラマを追う、という作り方をしていないので、私は話が退屈に思えた。

あー、これはバンドデシネ(ヨーロッパの大人マンガ)寄りってことか…。
絵を見て、絵が作り出した世界に没頭する、絵に酔う世界。
バンドデシネファンの長男と、お互いのマンガの読み方について話したときに、長男はきっぱりと「話はいらない、絵だけ見ている。今のジャンプは、磯兵衛しか見ていない、磯兵衛の顔見てるだけですげえ笑えるし、すごいし」と言い切っていたので、そのときバンドデシネの読み方と魅力がすごく理解できたのだった。
「ごめん、わたしバンドデシネにドラマを求めていたわ」

「プリニウス」のドラマ部分、皇帝ネロがヒステリーを起こす後半あたりで、ドラマを想起させるエピソードが入ってくる。ネロのキャラクター描写に焦点が当たり、主人公であるプリニウスの運命にも少しだけ、読み手であるわたしの感情の矢印が向く。でもなぜか日本風の感情をゆさぶり左右されるような、そういうドラマは、他にいくらでもたくさんあるので、そっちを読めばいいしと思った。これは日本特有の感情移入ドラマ史上主義(かたき討ちや成り上がりの血沸き高ぶる)のマンガではなく、世界のどのような文化や思想や好みにも偏らない、つまり世界中のどんな人種、どんな立場の人が読んでも「古代ローマやべー」「プリニウスっておっちゃんがいたのか、おもしれー」ということに、没頭できる世界マンガなのです。

客観性と好奇心を基本に生きて描いている、ヤマザキマリもとり・みきもプリニウスのような気がする。改めて、単行本の帯を見ると「どうしても、この男が描きたかった」と帯文があった。

ヤマザキマリさんも、とり・みきさんもプリニウスだ。

ドラマは見せてくれそうもない、ただただ、この世界の不思議、古代ローマのとある出来事、そして実力ある似たもの同士のマンガ家が出会って作品作りをする奇跡という、日常からの剥離、夢の時間を2本のペンで見せてくれるだけだ。

そして改めて、「マニタ書房」で購入してきた本を手に取る。
タイトルは「歌江ねえさんの心霊クルクル 幸せ喫茶」かしまし娘の歌江ねえさんの自伝本だ。騙されて2回も借金の肩に芸者の置き屋に売り飛ばされた歌江ねえさんの芸と恋、生き別れの娘、DVの相方、これ以上の日本土着感情アゲアゲドラマがあろうか。

プリニウスにも「歌江ねえさんの心霊クルクル 幸せ喫茶」を教えてあげたい。きっと「日本 昔の女 情が濃い」の引き出しに分類する。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?