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日本SF展といくらの醤油漬け

世田谷文学館で2014年7月19日~9月28日の企画展「日本SF展」に行ってまいりました。高校に入ってクラスで唯一仲良くしてくれた友達の中学時代の友人の高校の文化祭に行ってきたような感じでした。つながりはわずかにあるが、おもいっきりアウエィ。

入 口すぐに、とり・みき氏制作のアニメがエンドレスで流れていると聞いて、ウソだと思っていたんだけど、ほんとだった。線画のモノクロ作品だけど、まごうこ となきアニメ映像で、うにゃうにゃ動いていた。ひー。なんでこんなことするんだろう。「プリニウス」の特技監督と同時進行でこんなの作るなんて、命が惜しくないのか、SFだから仕方ないのか。土曜日でそこそこ混んでいる会場、みなさんなぜか腕組みしてモニターをにらむように見ていた。もっとだらんとリラックスしてみた方が楽しいと思うんだけど、SFだから仕方ないのか。ちなみに私がわかったネタはゴジラの足イッコだけでした。あとは、おおお、動く動くあははは…という楽しみ方しかできずアウェイっぷりを思い知らされた。

文字の本を読む習慣がないので、居並ぶ作家の先生たちの作品群もほとん ど読んでない最下層身分だけど、かまわず奥へ。とりあえずSF雑誌のバックナンバーや文庫本や単行本がばんばん並んで、表紙の原画もたくさんあるので、目 が泳がない。なんとかこれを見よう、とか、ここを読もうとか目的が定まり、それほど挙動不審にならずに済む。そして私は真鍋博さんの絵が好きだなあ、子どものときよりも、今の方がずっと。中身はさほど読んでいなくても、記憶の中にしっかりあるタッチ。そして一同に並べると色彩がなんて美しいんだろう。そし てSFとは関係ないけれど、アガサ・クリスティの日本語のタイトルそそられる。「なぜエヴァンスに頼まなかったのか」とか「終わりなき夜に生れつく」とかすごいカッコイイ。SFではないけれど。

そうだSFといえば、この雑誌のバックナンバーと蔵書、誰がこんなに買ったんだ!この並びようは「展」だからこうだということでもないことを私は知っている。家庭内にSFを持ち込むと、普通の家の壁がこういうふうになる。なんだろうね、自分の蔵書を増やし続けていく性癖。死んだら誰が片づけるのかとか考えないんだろうね、SFだから。死んだら自分の名前のついた文庫が設立されて、末永く残るというドリーム。寄付したらいいとか簡単にいうんだよね。うちの父親だけどね。ヤダヤダSFなんて。

だいたい私がSFにいまいちのれない のは、セックスの匂いが希薄だからだということに今日の「日本SF展」に行って気が付きました。セックスの匂いが希薄ということは生と死が感情ではなく、 科学で扱われているような感じがするということで生身の女を拒絶されているみたいでつらいんだ。全てに機械的に精緻な展開図を添えたい欲がわからない。地下都市、怪獣の内部、サンダーバードの基地、フリルも花もない。薄暗い闇にはコンクリートの匂いしかしない。外人の女、アンドロイドの女、動物とキメラの女、性の欲望はSFの隣にはいない、私ではない、誰でもない。あなたの中にいるなにかに触る幻の少女とその少女が憧れる大人の女しかいない。

“だから味噌汁がさめちゃうん だってば。一緒にこの家のローンの返済の計画考えよう、そろそろ歩き始めそうなこの子の靴はどれがいいかな、横浜のおばさんが検査でちょっとひっかかって入院するかもしれないから、あの犬を預かってくれないかといわれているんだけど、無理だよね。ねえ聞いている?その本、ちょっと閉じてくれるとうれしい”

日 本はSFの国だ。怪獣と科学と未来とロボットと悪の秘密結社と宇宙の始まりと終わりの安らぎの哲学と知性とユーモアと皮肉と前向きと隙間が、説明できないなにかに寄り添う。その中で育つ、その中にいたい、男の子どもたちの脳内自由。どこでもなくて、どこでもある自由。日本は男の子どもが男の子どものままで いられる国。たしかにそういう国。

各種支払の算段と仕事の日程に押し込めれてつまらないので、気分転換に「日本 SF展」に行ってきた。なじめない展示にさらにダークになりかけて、これはいかんと帰り道大型スーパーマーケットに立ち寄る。冬の毛布とボアのシーツの値段をチェック、敷物も厚手のやつ、座椅子もいるね。暖房器具も新調しないと。冬支度、予算は全部で5万円くらい?もうちょっと抑えられないか。食品のフロアに移動して、 じゃがいもと人参とアボガドをカゴに入れて、旬の秋鮭はフライにするかシチューにするか。生筋子もシーズンだ。イクラの醤油漬けつくるか。1p1180円。1180円あれば、3日分のメインの材料買えるなー、豚か鶏もも肉、刺身用のいさきの切り身280円…安い。イクラ漬けても美味しいけれどメインには ならない、生筋子やめる。牛乳とパンとチーズ、卵、納豆、海苔。店の外は暗かった。買い物袋を自転車の前カゴに入れたら、重心崩れてちょっとよろけた。

環八を北上して家に帰る、暗い空、途中で近道の住宅街に入る、ゆるい下り坂で自転車はスピードを上げながら、イクラの醤油漬けから遠ざかっていく。やっぱり 買えばよかった。もっとスピードが上がって、日本SF展からも遠ざかっていく、(1階の物販で)やっぱり買えばよかった、星新一を何冊か。夕方と夜の隙間に何かがいて、その何かを探しても良いことになっている日本のSF、人類の進歩と調和はサイケなデザインで、シンボルの塔には顔がついている、日本の SF。

あはははは。

なんでいつもうっかり遠ざかってしまうのか。なにもかもの隙間やゆらぎを日本のSFはスポンジのように吸い取って、そこを培養地にして、また隙間を作る無駄の再生産で豊かにばかばかしく許されていくというのに、そういうわたしたちの国の文化すごいのに。

展示が散漫に感じた。そもそもSFが散漫なものなので、これでいいのだ。

そ してわたしたちの人生も散漫だ。無駄なく効率良く結果を出すことのルーチンに疲れて揺れた若い日、そして現在も、わたしはどこか遠い宇宙の物語や、身近にある少し不思議な話に心寄り添わせることができる。「広い荒野にポツンといるようで涙がしらずにあふれてくる」ようなときも、あるねーって無限に広がる大宇宙、路地を曲がれば異界の入り口、わたしのようにこめかみに膏薬貼ってそろばん叩いているようなおばさんでも、創作物を通して、男(性別や役割のないというmanの意)の子どもになってもいい。たぶん世の中がせっぱつまるとSFは肩身が狭くなる。多様で無駄なものが跋扈する現状、これがいいのだ。それを忘れないようにすると誓って寝る。明日から、またルーチン。忘れないようにはするが、10円20円のことでキーキーいうルーチン。


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