平成ギリギリで始めること
あと数時間で平成が終わる。
ちゃんと詳しく言うと、今21時24分なのであと、2時間半あまりで平成から令和に時代が変化する。
家では、家族がのんびりと寝転がって猫と一緒にテレビを見て、この移り変わりを感じているのか感じていないのか。
とりあえず、平和だ。ただただ平和だ。
今日、大学時代からの友人と会ってきた。
「うちら頑張って、平成を生き抜いたよね」なんて話した。
それぞれがそれぞれ、社会や家庭、生きがい、など、何と戦っているのかわからないけど、何かと戦いながら生きてきた。
私もそうだ。
決して生きやすい性格ではなかった。不器用だし頭も良くない。それでも、自分のやりたい仕事を見つけ、自分の好きな人と家庭を築き、友人にも十分に恵まれた。
それらを築いてきたとき、心のどこかで、良く生きていきたいという気持ちが基盤にあったように思う。
ちゃんと生きていきたいってずっと思っていた。
でもじゃあ、ちゃんとって何だろう?
平成は、ただ駆け抜けて生きてきた。運にも恵まれてきた。できれば令和では、平成で得てきたものを熟成させたい、そう思っている。
別に良く生きなくてもいい、うまく生きなくていいなと思う。
ただ自分なりに、やれることをやっていきたい。
こんなにいろんな人が書ける時代って、他にない。いろんな媒体もある。宣伝できるツールもある。
しかしながら、私は長らくそういったものから逃げてきた。世間様に発表して、自分のスケールがわかってしまうのが怖かったのだ。ちゃんと生きようという自分像から外れた自分を認めるのがつらかった。
私なんぞ、と思っていた。それは今もそうである。
それでも、書くことを決めた。
ちゃんと生きるより、自分の幅を広めて楽しんで生きていきたいのだ。
私は書くことが好きだ。その楽しさの原点にかえりたい。
それが、平成の最後に思う私の決意だ。その他大勢の一人なのだろう。それでも発信していくことは、つらいことか、いやきっと違う。自分にとっては必要なことであり、それはきっと自分の人生において大きな意味をもたらす。何を大げさなと自分でも思うのだが、自分の世界に引きこもっていた人間にとって、外に発信していくというのは、それ相応の勇気がいるのだ。どうか許してほしい。
今私がnoteを書いている横で、家族が「あれまー」と言いながら、猫のブラッシングに勤しんでいる。猫も幸せそうだ。我が家は平和で幸せだ。そういう基盤が平成で作り上げてきた。
令和では、私という基盤を活かしながら何ができるのか。まだその道筋は見えないが、その一環として書くということを諦めずにやっていけたらなと思う。
昔、山田ズーニーさんご本人に「あなたには書く力がある」という一言が添えられたサインをいただいたことがある。そう、私には書く力がきっとあるのだ。私にとって神様みたいな人に言われた言葉を、私は都合よくそのまま受け取ってしまうことにした。それが原動力になるなら、神様もその図々しさを笑って許してくれるはずだろう。私はその力を信じながら、令和を生き抜いていってやるのだ。
楽しく、にこやかに、しなやかに。
下でもがいている自分が表面化していくこともあると思うけど、それでも平然を装って、もがき続けることすら、どっか遠くにいる自分はそれを見ながら楽しんで......。令和を渡っていくんだ。
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