「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」が最高だったという話(あるいは愛と手続きの話)

●ユートピアとしてのSF

宇宙ステーションのドッキング映像で映画は始まる。一つ、また一つと新たなユニットが接続されるたびに、新しい乗組員がやってくる。彼らの姿は徐々にホモ・サピエンスの姿から離れていくが、クルーたちは相手がどんな外見でも変わらず握手を続けていく……。
 この一連のシーンからわかることは二つある。「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」が宇宙を舞台としたSF映画だということ。そして、(おそらくは)ディストピアではなくユートピアの味わいを持った物語だということだ。人間たちはそこそこに賢く、多様性は当然の前提として存在し、世界には進歩の余地がある。もちろん完璧ではない。保身や裏切りや些細な諍いは存在する。けれども千の惑星はどこかの銀河共和国のように腐敗しているわけではないし、フォースのバランスも今のところ崩れてはいない。すくなくとも、作品の舞台となる時代においてはそうだ。「ヴァレリアン」はそれなりに平和な時代に起きる、しょうもない保身と責任逃れとその他もろもろの悪徳の物語なのだ。
 「ヴァレリアン」はとてもクラシカルな香りがするSF映画だが、しかし最近ではおなじみとなったあらゆる要素が入念に排されてもいる。陰謀と呼べるほどのものはないし、政府の腐敗も特にない。ポップなBGMにのせた軽快なアクションシーンもなし、感動的な自己犠牲もなし。悪役は改心しないし、家族や疑似家族の物語も特にない。しかし冒険はあるし、悲劇もある。そしてロマンスも。ヴァレリアンのプロポーズを相棒のローレリーヌが受けるのか否かということが、物語を初めから終わりまで貫いている、一つの芯である。

●ヴァレリアンとローレリーヌ

 映画の冒頭で、二人の関係はすでに示されている。ヴァレリアンはローレリーヌにぞっこんで、おそらくはローレリーヌの側も彼に気がある。ヴァレリアンはローレリーヌにプロポーズするが、その答えは物語の間中、ずっと宙に浮いたままだ。では彼女はなぜ、ヴァレリアンのプロポーズを受けないのか?
 最初のうちは、ヴァレリアンがあまりに適当なチャラい男だからだろうと観客は思う。確かにハンサムだし優秀な捜査官だが、ひどい自惚れ野郎で下半身もだらしなく、任務の間もずっと相棒を口説いている。ドン・ファンとハン・ソロを足して二で割ったような男だ。対するローレリーヌは高学歴で真面目な優等生、ヴァレリアンに口説かれても口癖は「任務に集中」である。しかし、結論から言えばこの印象はまるっきり間違いであることが、だんだんと明かされてくる。
 そう、ヴァレリアンはハン・ソロではない。クールに振舞い、タフガイぶってはいるものの、その本性は極めて真面目な良い子ちゃんである。密輸業者を逮捕するときも、きちんと「法の名において」彼に銃を突きつけるし、絶対に規則を破ったりはしない。反対に、ローレリーヌは規則をまったく守らない問題児だ。間違っても真面目な優等生ではない。怒りっぽく、目的のためなら手段を選ばない。物語中、互いがピンチになった相棒を助けにいく展開が一度ずつあるのだが、そのやり方は対照的である。ローレリーヌは相棒を助けるためには手段を選ばない。上官に反抗し、脱走を企て、民間人に銃を向ける。一方、ヴァレリアンは目の前でローレリーヌが連れ去られても、むやみに突っ込んだりはしない。国際問題になることを恐れているからである。彼は国際問題にならずに済むよう計画を立て、必要なものを準備して救出に向かう。民間人に銃を向けるのは一瞬だけで、助けを求める相手にはきちんと対価を用意し交渉する。(まあ結果的に皇帝を殺したのでどう考えても国際問題にはなったと思うけど)。
 ローレリーヌがプロポーズへの返事を決めかねているのは、ヴァレリアンが適当な男だからではない。その逆で、彼が自分に自信を持てず、他人を信用しない、政府と規則に対してあまりに忠実すぎる人間だからなのだ。(ヴァレリアンは相棒に対して、そうした側面を絶対に悟られまいと強がっているが、どう考えてもバレバレである)。この齟齬ゆえにプロポーズの返答は保留され、そして二人はパール人の前で決定的な対立を迎えることになる。

●パール人たちの物語

 「ヴァレリアン」の物語を貫くもう一つの芯は、パール人たちの物語である。彼らは豊かな海と緑を持つ惑星に暮らしていたが、人類の戦争の巻き添えを受けて一日にして絶滅してしまう。そのわずかな生き残りたちはやっとの思いでアルファ宇宙ステーションに辿り着き、自分たちの惑星を再建する計画を実行に移そうとしている。
 重要なのは、パール人たちが自分たちを(巻き添えとはいえ)滅ぼした人類を、すでに許しているということだ。彼らは復讐者ではないし、人類の敵でもない。これがもしハリウッド映画なら、間違いなくパール人たちは復讐の道を選び、スーパーヒーローが苦虫を噛み潰したような顔で彼らを倒していただろう。リュック・ベッソンがパール人に人類を許させたのは、たぶんこれが理由だろうと思う。もしもパール人を復讐者にしてしまえば、物語としてはどうしても彼らを敵役にせざるを得ない。そうすれば、道は二つだ。何となく哲学的な苦悩を抱えながらスーパーヒーローが倒すか、あるいは「改心」のすえに共存の道を取るか。どちらにしても欺瞞的であり、嫌らしさはぬぐえない。(ヴァレリアンとローレリーヌを見たパール人たちが「すべての人類が悪人ではない」と気づかされる展開のおぞましさを考えてほしい)。
 結局、物語のオチとしては当時の作戦を指揮していた司令官が、証拠隠滅のために生存者であるパール人たちを抹殺しようとしていた、という話だったわけだが、その司令官を捕らえたにも関わらず、パール人たちは彼を殺そうともしない。(ローレリーヌならたぶん殺しただろう)。哀れな事に、物語の最大の山場は彼の陰謀とは無関係なところにある。
 それは、物語の鍵となるコンバーターをめぐる二人の対立である。これは宇宙に一匹しか残っていない政府の財産であり、しかしパール人たちの故郷を取り戻すために不可欠な生物でもある。この生物をパール人に渡すべきかどうかでヴァレリアンとローレリーヌは対立する。ヴァレリアンは政府の財産なのだから自分たちに渡す権限はない、法廷が決定すべき問題だと主張するが(真面目である)、ローレリーヌは今この場で過ちを償えるのは自分たちだけなのだから、今すぐ渡すべきだと主張する。
 面白いのは、この対立が一見すると大した問題ではないように思えることだ。ヴァレリアンが主張するように法廷の決定に委ねたとしても、最終的にコンバーターはパール人たちのものとなっただろう。この世界において人間はそれなりに賢く、政府には良心が残っているのだ。だから、少なくともこの問題はヴァレリアンから見れば、大した問題ではない。トロッコ問題のような「究極の選択」ではないし、世界か愛かのような問いでもない。しかし、これは同時にパール人たちの側から見れば、極めて重大な意味を持つ問題である。故郷を失い、600万人の仲間を失い、やっとの思いで見つけた悲願の鍵が目の前にあるのだ。ヴァレリアンとパール人たちとの間には、あまりにも大きな不均衡が存在する。彼が決して理解できないのは、この不均衡である。自分たちにとっては些細な問題が、相手にとっては命を賭けるほどの問題でありうる。そうした立場の違い、思いの違いを考える想像力が、ヴァレリアンには決定的に欠けている。
 誤解のないように書いておくと、ヴァレリアンは極めて公平な人間である。このことは、彼が手続き的正義を重視していることからもわかる。彼は正規の手順と手続きのもとで、すべての生物を平等に扱うべきだと考えている。けれど、その公平さゆえに、他人が感じる重さの違いをくみ取ることができない。誰かにとって命より大切なものは、他の誰かにとってはそうではない。だからこそ、この対立のなかでローレリーヌはプロポーズの話を持ち出すのだ。ヴァレリアンにとって彼女が特別な「誰か」であるように、パール人たちにも特別な「誰か」がいるのだということをわからせるために。

●愛と手続き

 では、ローレリーヌは正しくヴァレリアンは間違っているのだろうか? 実際にはそうとも言い切れないのが面白いところである。そもそもこの物語の根幹、千の惑星の都を作り上げたもの自体、ヴァレリアンが依拠する手続き的正義に他ならないからだ。手順や規則は、この映画のなかで必ずしも否定されているわけではない。(愛と対置されているのは規則ではなく、忠誠である)。物語の終盤でパール人たちが攻撃されずに済んだのは、作戦の指揮を執っている将軍が極めて公平な(つまりヴァレリアンと似たタイプの)人間であり、きちんとした手続きと手順を踏んだからである。
 実際、ヴァレリアンが善人であることは映画の随所で示されている。異次元マーケットで敵に追われているときも、いちいちぶつかった相手に謝罪しているし、相棒を助けなければいけない場面にも関わらず、ポールダンサーのステージを最後まできちんと見て、律儀に感想まで口にしている。基本的に、彼はどんな相手に対してもそれなりに礼儀正しいのだが、それは彼のなかに他者をリスペクトしようという根本的な感情があるからだ。ローレリーヌが彼のことを好きなのは、彼が悪なタフガイだからではなく、そういう優しさ故だろう。その種のやさしさは、彼女にはほとんど持ち合わせがないからである。
 ユートピア的な世界観における手続き的正義とは要するに、全ての相手に敬意をもって平等に扱うという精神が根本にあるもので、だからこの手順を平気で破り捨てるローレリーヌには、黒幕の司令官と同じような危うさがある。彼女が司令官と違うのは過ちを認め、それを謝罪することができるという点なのだが(「ごめん間違えた。18だった」「いいんだ。間違いは誰にでもある」という何てことのない会話が、ここで生きてくる)、それでも彼女はたぶん、いつか過ちを犯すだろう。そういう「ワルな」危うさが、いい子ちゃんであるヴァレリアンがローレリーヌに惹かれた理由なのだ。
 結局のところ、手続きとは言語化された一種の愛であり、愛もまた一つの手続きである。コンバーターをめぐる二人の対立は、結果だけ見ればどちらも正しい。どちらにせよ、コンバーターはパール人たちの手に渡るだろう。だから問題は、結果ではなくそこに至る手順であり手続きなのだ。手続きとはつまり、相手をどのように扱うかという問いと密接に関わるものだからである。貴方は今、目の前にいる相手をどのように扱い、どのような言葉をかけるのか?その問いこそが倫理であり、たぶん愛でもある。
 そんなわけで、物語は再びのプロポーズをもってして終わる。それは失敗に終わった初めのプロポーズ(任務の途中に大勢がいる前で物のついでのように行われるプロポーズ)の反復なのだが、二度目のプロポーズは二人きりの空間で行われ、しかも「ロマンチック」でさえある。これもまた、一つの手続きである。愛は手続きに宿るのだ。

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