ビデオカバレージはテキストを代替しうるか

 僕はカバレージを、MTGというゲームの素晴らしさがより多くの人に伝わって欲しいと思って書いている。

 より多くの人に伝わるためには、業界がどんどん広がっていかなければならない。ユーザーも、それを取り巻く人も、周りを巻き込んで台風のように、どんどん大きく育っていかなければならない。

 業界が大きくなるためには、関わっている人たちの精神的モチベーション、向上心が必要不可欠だ。大きくなった歯車は、関わっている全員が勢いを持って回さないと回らない。

 そのためには、人は価値を何度も再認しなければならない。確かめ直さなければならない。日々の役務は苦痛だから。「こんなに苦労して走っているけれど、実は意味なんてないんじゃないか?」と考えてしまうから。

 「自分たちはこんなに素晴らしいものに関わっているんだ」と、「ああ、やっぱり続けていて良かったな」と思えるからこそ、前を向ける。先を目指せる。

 テキストカバレージの存在は、その再認すべき価値を担保する。それが始まりだ。

 ただ、ビデオカバレージの登場はテキストを窮地に追い込んだ。製作が容易で、よりライブ感溢れる情報の奔流を届けられるからだ。

 では、ビデオはテキストを代替しうるか。答えは否だ。少なくとも今は。

 ビデオでは価値を完全には担保できない。ありのままを映しすぎる。その価値を信じている人が見ればその通りの価値に見えるだろう。ただ、本人が価値を疑っているときに見ればその疑われた価値がそのまま鏡として映る。それを見た人は、「あれ、こんなにつまらなかったっけ?」と思い、気持ちが離れていく。

 テキストは違う。思いが乗せられる。作為が込められる。したがって、ライターが見て欲しいもの、より注目して欲しいもの、モチベーションの原動力にして欲しいまさにその中心、価値の芯だけを、余計な情報を与えずに、綺麗に取り出すことができる。ビデオでも価値は伝わるのだ。ただ、価値ではない付随的な部分が多すぎて視聴者はそれを正しく受け取れない。

 そう、ビデオから価値を取り出せるようにするのには、実はテキストの何倍も労力がいる。今はコストをかけたくないから「価値なんて取り出せなくてもいいよ」と言いながらビデオを出しているだけだ。それは「ビデオカバレージ」ではない。「カバレージ」が意味を持つのは、「価値の芯」をライターがキュレーションしてあげたときだけだ。だから今の「ビデオカバレージ」は実はただの「ビデオ」で、まだ「カバレージ」としての整形がなされていない、ただの原材料に過ぎない。

 我々はテキストで「価値の芯」を取り出す技術を持っている。だから人はカバレージライターと呼ぶ。もしビデオからテキストと同程度の労力で「価値の芯」を取り出す技術が発達したら、そのときはカバレージライターもお役御免となるだろう。

 しかし少なくともそのときまでは、テキストカバレージが役目を終えることはないと考えている。

 ライターがその意味を自認して、自覚を持ってカバレージを紡ぐ限り。

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