傷・喪失・再生 、そして救い「ドライブ・マイ・カー」感想

こんにちは。

今回は先日観た映画「ドライブ・マイ・カー」について書こうと思います。

※以下原作・映画含めネタバレあり


自分の順序として原作「女のいない男たち」の「ドライブ・マイ・カー」を読了→映画「ドライブ・マイ・カー」鑑賞→原作「女のいない男たち」の残りの短編読了、でした。

個人的には村上春樹の映像化作品を鑑賞した後、いつも正常な感想を書くことが難しいです(笑)著者の作品が好きすぎるあまり映像化への移転は嬉しくもあり悲しくもあり両方の感情が入り混じってしまいます。

ただ、今回は映画を観る前提で原作を読むという、個人的には珍しい鑑賞方法でした。

さて、やたらと前置きが長くなってしまいましたが、映画を観た結論として、観て本当に良かった。それが第一声です。

ただ、相変わらず村上春樹映像化への複雑な感情は残ったままでしたが…(苦笑)

順を追って書いていきます。

冒頭の妻が逆光で顔が分からない状況で、事を成した直後であろう所で語っていく不思議なヤマガの物語。(いわゆる作中作に近いもの)

もうこのシーンでやられてしまいました。あまりにも幻想的、神秘的、蠱惑的で簡単に私の気持ちはこの映画に持っていかれました。

原作「女のいない男たち」を読んだ方はご存じの通りこのシーンは原作「ドライブ・マイ・カー」には無く、同短編集「シェエラザード」をアレンジして加えられた部分。

映画「ドライブ・マイ・カー」全体がそうであるように原作「女のいない男たち」の各作品を取り入れていて村上ワールドを全開に押し出しています。

序盤では原作ではあまり語れていなかった妻である音の生前も描かれていました。音の浮気が発覚した場面も同原作短編集「木野」の場面を採用していましたね。

そして本編である妻の音が亡くなり、家福が演出家として広島でワーニャ伯父さんのオーディション及び舞台進行を進めていく展開。これは大胆且つ原作の世界観を最大限に引き出した展開だと思います。短編だった原作小説を長編映画に変換するには充分な導入だと思います。

些細な改変ではあると思いますが、映画版の家福は当初中々みさきをドライバーとして認めがらなかったように思いました(笑)

そのみさきを演じた三浦透子さん、本当に素晴らしい演技でした!!!

原作のみさきのクールなキャラを最高に引き出しながらも、みさきのなり切り方がとても自然なんです。上乗せをしていないというか、引き算の演技と言いますか(もっとも自分が演技について偉そうに語る資格はないですが)

完璧にみさきになりきっていたと思います。

さて、短編小説を長編映画化したため、様々な大胆な改変がありますが、しかし何よりも大胆な改変だと思ったのは高槻の存在!!!

いや本当に間違いなく高槻のキャラが変わりすぎて当初は戸惑いました(笑)

原作の高槻は妻の浮気相手という存在が第一で、そこまで彼個人の性格・人格が強調されていなかったように感じます。しかし映画版では大きく異なります。裏を返せば高槻のキャラの変化が原作と映画版の分水嶺かもしれないです。それほど高槻の存在感が強くてキャラは大きく異なります。

まず自ら家福のオーディションを受けるのもオーディション初対面後に家福を飲みに誘うのも原作のキャラと大きく異なる!!!岡田将生が演じているせいもありますが原作以上に高槻が薄っぺらく変態的で変質的な存在になっています。「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田君や「騎士団長殺し」の免色のように一見格好よく異性の受けもよく周りから好かれるタイプだが、その存在は主人公に悪意的な何かをもたらすような存在…。映画の高槻はそのように感じました。

ここでもうひとつの大きな改変部分、コン・ユンス、イ・ユナ夫妻について。元々ワーニャ伯父さんの舞台自体が大きな改変ですが、日本語が達者な夫と聴覚障害でありオーディションに挑戦した韓国人夫妻。この夫妻は当初余剰に感じて原作のテーマ・世界観を鑑みてそこまで必要かな?と思っていましたが夫妻の食事でのシーンで納得しました。夫妻は家福、そしてみさきと同様に挫折を味わいながらもそれを乗り越えて家族の愛に昇華した。つまり家福とみさきにとってこの夫妻の存在は救いの存在なのかもしれません。

夫妻の夕食のシーンで家福は率直にみさきをドライバーとしての腕前を褒めます。みさきが直後に犬とじゃれ合うシーンが『嬉しいけどそれを照れ隠しする』という言動を言葉無しに最低限に表現している見事な演出だと思います。

この後の広島の夜景ドライブでの家福とみさきのシーンはこの上なく至福です。二人がお互いを肯定し合ってお互いがほんのひとときでも「救い」を得たシーンかもしれません。

しかしここから物語は大きく動きました。

高槻が家福の知らない音の物語を語った車のシーン。好きな男の子の家に忍び込んだ女子高生の奇妙な話。あの話の結末はいくらでも解釈のし甲斐があるので困ります(笑)しかし、あくまでも個人的な解釈としては映画版の高槻は家福にとって悪意ある存在だと思います。

そして高槻が逮捕されるというまさかの超展開。

絶望的な展開から、家福とみさきはみさきの故郷である北海道に向かう。

みさきがかつての実家で語った場面は胸が引き裂かれる想いでした。

家福は妻の浮気により、みさきは母から虐待的な扱いにより深く傷ついていました。しかしそれでも家福は妻をみさきは母を愛していた。そして二人とも愛する人が死んだのは自分のせいだという考えがずっと拭いきれていなかった。愛する人に傷つけられ、それでも愛していて、そして愛する人を自分のせいで失ってしまったという罪悪感。

何年も背負っていた傷と罪悪感は完全に拭えることはないがそれでも二人は乗り越えていこうと決めたのかもしれないです。

そしてワーニャ伯父さんの場面。手話で語られるあの台詞がどれも自分にすごく響いたのですが、一字一句理解したいためにそのシーンだけでもまた観たいです。それほどあのシーンは家福・みさきだけでなく自分にとっても『救い』でした。

そして最後の場面でみさきは韓国のスーパーにいました。あれはどういうことでしょうか?単純にイ夫妻の実家に訪れたのかもしれませんが(笑)

ともあれ素晴らしい作品でした。愛する人(主に妻)に傷つけられ愛する人を失う。「ねじまき鳥クロニクル」「騎士団長殺し」等他の村上作品がそうであるように。

今作に関して自分はまだまだ多くを理解しきれていませんが、それでもこの作品が教えてくれた「救い」を知ることに感謝しています。

改めてこの作品に出会えて良かったです。

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