『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』初見時の感想をまとめたい。

前書き
 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のネタバレを含む感想となります。
 まだまだ自分の中で消化できていない部分が多々ありますし、勢いで書き綴っただけなので、まとまりなくダラダラとした文章だと思いますが、自らの鑑賞後の気持ちの記録としてこの荒い形で留めておこうと思います。
 他、箇条書きでフラッシュアイディア的に思った/頭に浮かんだことをメモ代わりに書き連ねていこうかな。

 文中の敬称は省略しています。あしからず。

感想
 「時」が熟成を産んだ作品でしたね。
 かつてTV版や旧劇場版で描かれた表現は、受け手に対して非常に攻撃的で露悪的でありました。それは当時の庵野監督の精神状態に寄るものでもありましょう、また不遜を承知で言うならば、制作スタッフの表現力も稚拙だったのかもしれません。
 その旧劇場版より時が経ち、庵野監督も結婚をし、新たにエヴァと向き合い、その中で壊れ、再生し、そして「シン」に取り組むという、長い長い道のり。(そのあたりは安野モヨコの漫画『おおきなカブ(株)』にくわしい)https://annomoyoco.com/news/%E5%AE%89%E9%87%8E%E3%83%A2%E3%83%A8%E3%82%B3%E6%8F%8F%E3%81%8D%E4%B8%8B%E3%82%8D%E3%81%97%E3%80%81%E5%BA%B5%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC10%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%A9/

 シリーズ通して25年という時間。その時間が、庵野監督に人として多くの経験と、表現者としての成長をさせたのでしょう。
 本作のタイトルにつく「:||」は楽譜における反復の記号らしいですね。思い返してみれば「序」「破」は旧劇場版までの物語をなぞる・反復するものでした。そして大きくレールを外れたようにも見えた「Q」を経ての「シン」は、終わってみればTV版の「人やものごとの肯定」、旧劇場版の「エヴァの無い(その後の)世界」という着地を反復しておりました。けれどもどうでしょう。その表現は旧シリーズとは全く違う手触りではありませんか。なんとも優しい。

 エヴァらしい「庵野秀明の私小説」「尖った映像表現」でありながらも、エンタメを忘れず、全てのメインキャラへ落とし所を作り、そして受け手のエヴァのファンも、送り手のスタッフ、もちろん自らをも「エヴァからの卒業」をさせる──かつて描きたくも辿り着けなかったところに、ようやく着地できたのでしょう。なんとも清々しい真(シン)の最終回。

 色んなところで何度か書いてますが、受け手の僕はね、TV版の最終回で狐に摘まれたような思いをしたんですよ。ところが次こそ納得させてくれという思いで挑んだ旧劇場版で「あんな終わり方」をされてしまい……許せなかったですよね。
 だから僕は、あの1997年の7月19日から一度たりとも、これっぽっちも、全く、TV版と旧劇場版を見返していませんでした。そんな25年ものの「呪い」を完全に解いて、観てるこっちの背中まで押してくれましたね、『シンエヴァ』。溜めてた分だけ最高の開放感に包まれてますよ、今。幸せ。

 総論の最後に、やはりこの2つの「おまじない」の言葉を。庵野監督、そして全ての制作に携わる方々、本当に「ありがとう」。そして、「さようなら」、エヴァンゲリオン。


メモ
以下思いつきを箇条書き的に

・1月公開から3月10日公開に伸びて、今となっては良かったと本当に思います。完全に「卒業式」じゃないスか。


・「落とし前」とキャラが連呼していましたが、同じ様に庵野監督が「落とし前」をつけるの作品でしたよね本作。


・設定としての色んな謎は残ったまま/明かされないままだけれど、結局それらが主題ではなく、あまり意味はなかったのが良かった。


・本作めちゃめちゃセリフ説明が多いんスよ。そしてそのロジックにもかなりの飛躍もあること多々。だって「新しい槍を作ります。データは直前に敵がやってた分のものしかないけどぶっつけでやります。でもまぁリツコならできるでしょ?」ですよ?! なんたる無茶!
 ただ画面のテンションと、受け手のこっちの「エヴァがこれで終わる!」というはちきれそうな思いと、四半世紀付き合ってきたキャラへの愛情と、『Q』以降のあの過酷な世界を乗り越えて来たヤツが言うならという信頼感というブーストがかかって、割合スルっと観れてしまったんだな。ズルいよなぁ!


・クライマックスの挿入歌に『VOYAGER〜日付のない墓標』を選択したところに、庵野監督の特撮への愛を感じますが……この曲、原曲のキャッチコピーが「ボイジャーはソルジャーの鎮魂歌」なんですよね。エヴァというものに狂わされた受け手・送り手(庵野監督含む)の魂の浄化のための曲でもあるのでしょう。後は盟友・樋口真嗣(シンジ)氏への愛ね。


・「碇シンジのシンクロ率は0ではない。それに最も近い無限大だったのだ!(メビウスマークドーン!)」の勢いと熱さ、妙なトリガーみがある。


・『シンエヴァ』のポスターって、キャラが並んでるデザインなのに右側が不自然に開いてるんですよね。これ、ここには庵野監督が入るんじゃないかしら。キャラクターたちと一緒に、全てのエヴァにさよならと、受け手の僕らに感謝を伝えてるんじゃないかしら。



・碇シンジについて
前半の鬱っぷり、完全にQ後の庵野監督ですよね。

2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。
明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。
(以上『シンゴジラ』公式サイトのコメントより抜粋)

 劇中で友人らの手も借り、再生していくシンジの姿、庵野監督の姿そのものなんだろうなぁ……と思うと、最近自分も友人のありがたさをしみじみ痛感しているのも相まってグッときちゃいましてねぇ。なんでこんなに映画監督よりになって映画観てるんだって話なんですけれど、作品と監督の距離が近すぎるのがエヴァなんだもん仕方ない。
 
 ラストの成長したシンジを演じるのは神木隆之介。なぜ緒方恵美ではないのか……という点なんですけれど、パンフレットによると『破』の収録時、庵野監督が緒方に「お前がずっと14歳の心を手放さないでいてくれたから、なんとかなった」と言ったそうなんですね。また『Q』の収録時には「お前にやってほしいのは14歳の心を持ったまま取り残されたお前自身の孤独をこのフィルムに写すことだ」とも。つまり、「14歳の碇シンジ」を演じるのであれば緒方恵美以外の余人を持って替えがたいものでありましょうが、「14歳より心身ともに成長した、先に進んだ碇シンジ」であるならば、緒方恵美が演じてはいけないのではなかろうか、という。徹底的に卒業させるんですよ、本作は。


・綾波レイについて
 綾波ファンの友人は「そっくりさん」の報われなさに納得がいかない様子でしたが……僕は綾波にはそんなに思い入れや愛が無いので、彼女が某かの装置に留まってしまう事にもそんなに抵抗が無いのですよね、申し訳ない!
 ただ、初めての体験に疑問をぶつけまくる、どちて坊やな「そっくりさん」にはキュンとさせられたけれど、これは多分父性愛的なものだよなぁ。でもロングヘアーの彼女にはちょっちグッと来た。25年越しのギャップ萌えという(笑)


・式波・アスカ・ラングレーについて
 『破』でチラついたシンジへの思いを清算できたのは良かった(のか?)。最後の「バカシンジ!」は今までの作品の中の文脈と、作品の外(多くは語りますまい)の文脈を踏まえると感無量でございました。
 しかしケンスケとは特に何もなかった派なんですけれど、案外ケンスケ×アスカ派っていらっしゃるのね。恋愛観の違いを感じるどす。


・真希波・マリ・イラストリアスについて
 もう僕もいい歳なんで、「俺の嫁」的なやつあんまり無いんですけれど……彼女は好きです。やー本当、好きです。表裏無く、話が早く、とにかく前に進む坂本真綾ボイスのエッチな女性。そんなん嫌いになる訳ないやろほんま(今までエヴァの女性キャラでしっくり来る子いなかったのに!)。億面もなく「付き合ってください」と言いたいですぞ。
 途中参加の、ある種外様な彼女がシンジのパートナーになるとは、あまりの突然の出来事に我が目を疑いもしましたが、レイを庵野監督の分身、アスカも分身でありましょうがかつてのゴニョゴニョと考えると……そのどちらでもなく、『破』で外からやってきた存在・マリが安野モヨコであったかと思えて納得もしましょう。シンジに手を差し出し、外に導いた彼女のように、安野モヨコもまた庵野監督の世界を広げたミューズなのでしょうなぁ。


・葛城ミサトについて
 『Q』ではいかめしい格好で、「葛城司令」に変わってしまった彼女ですが、本作の特攻シーンで帽子とバイザーを脱ぎ捨てた時のカタルシスったら無かったねェ! これだよ「ミサトさん」! とファンの皆が心の中で「おかえり」という感情を抱いたのでは。
 『Q』と『シン』の行間で子供をもうけていたのは唐突ではありましたが……今回ミサトに限らず、またシンジとゲンドウの描写を覗いても「親子」の描写がめちゃ多いんですよね。パンフレットによると、ミサト役の三石琴乃が庵野監督に「“お母さんこれしかできなかった”というセリフは『エヴァ』が始まったときには無理だったけれど、これだけ年月が経った今だから僕も書けたし、今の三石さんだから言えたセリフです」と声をかけられたとの事ですが、庵野監督の人生経験がミサトに子供を産ませちゃったんだから、しょうがないなと納得する俺もいるのです。


・赤木リツコについて
 新劇場版では殆ど解説役に回ってたというイメージの彼女。しかし本作のミサトとの別離のシーンは彼女の見せ場でしたね。泣くでも嘆くでもなく、即座に彼女の願いを承る、静かながらもコク深いシーン。
 新劇場版は旧劇場版と違う世界線とは言い条、旧劇場版でのミサトとの愛憎を知る身としては、恩讐の果て、こんなにも強い絆を結んでいた事に嬉しさを覚えるのです。


・加持リョウジについて
 新劇場版では「『破』でスイカ育ててシンジにミサトを託しただけのおじさん」だったのに……まさか本作で「できるだけ多くの種を確保・保存し、未来に託す」という大いなる役割が明かされるとはさぁ!(上手ぇなぁ!)
 これはSF的な「種の保存」の描写ではあるんですけれど、庵野監督がプロデュースした特撮博物館や、前述の『おおきなカブ(株)』の野菜づくり=作品づくりな事に思いを馳せると、彼も庵野チルドレンの一人であることを思い知らされるのですよ。


・碇ゲンドウについて
 25年かけて、やっっっっとゲンドウがパンツ脱いだよね。途中のラフ書き風のゲンドウ回想シーンでは露骨に彼の顔の書き方が変わるけれど、あれは庵野監督の顔を意識してるのではなかろうか。
 孤独に本を読み知識を得ること=本だけでなく、様々なエンタメなどに触れることであり、ピアノの演奏=アニメ制作をはじめとする表現、だとすれば、まさしくこのゲンドウの自己開示は庵野監督の自己開示でありましょう(そして我々オタクたちにも刺さる自己開示……その後の親戚付き合いしんどい描写とかも含め……)。


 とりあえずこんなところですか。はー、25年分の憑き物が落ちた。

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