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マタニティリープマガジン vol.26 夫婦ともに子連れの再婚、子供と二人三脚で歩んできたシングルマザーが模索するstepファミリーの形 第1回/全3回

みなさん、こんにちは。「マタニティを飛躍の機会に」。マタニティリープです。このマガジンでは毎週木曜日にメインコンテンツとして、マタニティ期、子育て期の経験とリープについて伺ったインタビュー記事を連載しています。今回から山本千佳さん(仮名)のインタビュー(全3回)が始まります。読んでいただいて、共感したり、元気になったり、癒されたりと、みなさんの力となる記事になれたら嬉しいです。


▪️マタニティリープインタビュー 山本千佳さん

〜山本千佳さん(仮名)のマタニティリープジャーニー〜(第1回/全3回)

山本千佳さんのご家族は夫婦ともに子連れの再婚のいわゆるstepファミリーです。現在は千佳さん、旦那さん、千佳さんの小学4年生の息子さんとご夫婦の1歳の息子さんの4人で暮らしています。シングルマザーで子供と二人三脚しながら母の最期を24時間介護で看取るなど、波瀾万丈な出来事もママ友のサポートを受けながら乗り越えてきたそうです。今回のインタビューはそんな千佳さんの生い立ち、離婚した旦那さんとの出会いや結婚生活、家を出るに至るまでを伺いました。インタビューをしていると感じる千佳さんの持ち前の素敵なところが伝わると嬉しいです。

生活の中に両親の仕事を感じながら育つ


ーー生い立ちというか、どんな家族でどんなふうに育ってきたか、お聞きしてもいいですか?

姉(6つ違い)と両親の4人家族です。父は料理人で東京の町田で洋食のお店をやっていました。父は修行して、結婚して、独立して店を持ちました。母はインテリアデザイナーや服のデザイナーになりたかったのですが、結婚して、父のお店の手伝いをすることになりました。お店のデザインをしたり、デコレーションを週に1度は変えて、楽しそうだった母を覚えています。私も指に画鋲を刺したりしながらそれを手伝っていました。保育園の頃から包丁で何かを切ったり。こちらも指も切ったりしながらやっていましたね。

母は結婚出産でデザインを諦めたけど、父の仕事を手伝いながら、少しずつ好きなことをやっていたようです。資格は取れたけど外に仕事に行くのは難しかったので、新築マンションの物件の間取りの書類をもらっていて、その内装やインテリアデザインの仕事をしていたのを覚えています。そのうちに父母の間がうまくいかなくなって、離婚はしなかったけれど、別々に住むようになりました。自分と姉はお母さんの方について、女3人で埼玉に住んでいました。

経済的な自立と自由


その頃から私は自分で稼げるようになりたいと思っていました。15、16歳からアルバイトや事務所に登録して、イベントの仕事をするようになりました。例えば、車の新車イベントなどに派遣されるような仕事です。バイト先の女の先輩のところに住ませてもらっていたので、高校の時にはすでに家の外に出ていました。高校時代には友達とお店に行ったり、持ち物を買うのにもお金がかかりました。そういったお金も自分で稼いでいました。両親はすぐには離婚しませんでしたが、母はシングルマザーとして頑張っていたので、自分にかかるお金は自分で稼ぐ意識が強くなり、先ずはバイクの免許代、自分の部屋のテレビ、成人式の着物代、車の免許代などを貯める目標から始まったような気がします。

ーー高校以降はどうでしたか?

バイトがうまくいっていたので、勉強するぐらいだったら…と仕事ばっかりしていました。今思えば、専門学校とか大学とかにいけばよかったんですけど。
イベントの仕事は日当がよかったんです。モデルやテレビ番組の「金スマ」の赤い服の人とか、イベントのお仕事をしていました。「金スマ」の前の方の列の人はギャラもいいんですよ。(笑)音楽が大好きでした。母もそうだったのでその影響があるかもしれません。マニアックなオーディオ機材を扱う仕事をやっていたこともありました。海外に行って日本のオーディオを売るようなイベントにもいきました。ヨーロッパが中心でした。

そして、美容のアートメイクの勉強をし始めました。資格も取って、フリーでスタートさせました。友達のサロンの一角でやったり、出張もしました。その延長上でガンで髪の毛やまつ毛などが抜けてしまう人へのメイクもしたことがあります。その後アートメイクの規制が厳しくなり、離れはじめましたが、やはりガンの方々へのリクエストだけは受けて、出来る限りの範囲でやってきました。でも、母が倒れた時を期に離れてしまいました。

最初から噛み合わなかった前夫との生活

ーー(最初の)旦那さんとはどんなふうに会ったのですか?

31歳ぐらいの時に最初の旦那と出会いました。半年付き合って、相手が結婚したがっていました。自分はまだ早いかなと思っていました。そして妊娠。できちゃった婚になりますね。そして33歳で出産しました。
年下の旦那だったのですが、そのあとがうまく行かなかったです。話を聞いたら実はすでに離婚歴があって、子供が1人いて養育費を払っていると。妊娠6ヶ月の時に義理のお母さんにあったら、その話も違っていて、これから調停するとのこと。話が違うんです。その時点で、この人でいいのかな?と思いました。旦那は子供が生まれるまでには離婚すると言っていたのに、できなかった。せめて、子供を認知をしてほしいといったら、調停で不利になるからと認知もしてくれなかった。調停が終わってやっと入籍したものの、相手は変わらずでした。

元旦那の実家での生活、家を出るまで


ーーそれは大変でした。結婚した後はどうでしたか?

住み始めたのは元旦那の実家でした。義理のお母さんは家族の中でまるで教祖のような存在でした。一緒に住んでいても何をするにも、色々と見張られているような状態でした。義理のお姉さんの3人の子供も連れてこられ、私が面倒を見るような状態。妊娠中からです。家族仲が良いことはいいことだと思いましたが、私の人生じゃないと思いました。

夫にもそのことを伝えて、実家の外に出るということで住む場所を借りたのに、週に1回は実家に泊まらないといけない状態に戻ってしまいます。週に四回も実家に泊まることもありました。東京の下町だったので、祭りや年中行事、その繋がりで毎日飲んだり、挨拶とかで毎日いない。朝帰りや女遊びのようなものも。私ってなんなんだろうと思う日々でした。旦那さんのお父さんはお店を経営していて、夫もそのつてで仕事していました。
出産したあとも、保育園に預けることも拒否されて、幼稚園までは家にいなさいと。外出もままなりませんでした。

その状態は子供が1歳半ぐらいまで続きました。そして家を出ていくことにしました。手荷物だけ持って夜逃げのようにして家を出ました。

第2回に続く


▪️編集後記


「チョーズン・ファミリー(Chosen Family)」という言葉を知っていますか? 血縁や法的な繋がりに基づかない、選んで築く家族のことを指します。伝統的な家族観にとらわれず、親友やパートナー、メンターなど、個人が大切に思う人々との間で形成される家族の形です。愛情、信頼、支え合いなどを基盤として、自分自身で関係を選択し、築いていくことが特徴です。

今回から始まったインタビュー連載ではstepファミリーのお話が出てきます。私たちは特に日本で住んでいると、伝統的な地縁や血縁による家族が前提になっています。核家族がベースとなる社会の中で、家族だと思える存在や家族についての意識の広がりは大事だし、Chosenとあるように選んでいけるものになりつつあるのかもしれません。Chosen Familyの概念は、特にLGBTQ+コミュニティにおいて重要な意味を持ちます。血縁家族からの理解や受け入れが得られない場合、同じ境遇や価値観を共有する人々との間で心の拠り所を見つけることがあります。しかし、これはLGBTQ+コミュニティに限らず、様々な理由で伝統的な家族構造に属さない、またはそこに満足できない人々にとっても意義深いものです。

チョーズン・ファミリーは、人々が互いに深い絆で結ばれ、感情的な支援や愛情を共有する関係性を示しています。自分らしい生き方を選び、人生の重要な部分を共有できる家族を自ら選ぶことの価値を表しています。そしてマタニティリープの過程の中でも、その選択肢は一つの大事な飛躍の形なんだと思います。


<編集>
マタニティリープ合同会社
https://www.maternityleap.com/


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