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劣等耽美の展覧会
ネタ曲投稿祭ぶりです!また切ない世界を生きるです!
2周年+そろそろ殿堂入りするということで『展覧』について語ろうかなって思います。
そんな面白い話じゃないです。
赤裸々に、嘘
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この世には当然、嘘という概念があります。しかし、その嘘は「嘘」という形式上の概念を持った真でもあります。
"嘘から出た実"
恐らく、今の文章を読んで誰しもが思い浮かべた成句でしょう。
しかし、私が言っているのは「真」
実というのは、虚であることの対義で、真というのは、偽であることの対義です。
つまり、偽でないものが真であるならば、偽である存在が確認されないものは真の一択になってしまう(または真でないものが偽であるならば、真である存在が確認されないものは偽の一択になってしまう)のです。
そして、我々はすでに一者択一な世界を生きています。
例えば、UFOを見たという証言です。UFOの存在が確実なものとは言えない一般論の中、存在するという証言があったら、UFOの存在はその人にとっての真となってしまうのです。
「真実とは、解釈である」とニーチェも言ったものです。
偽という存在が闊歩しないのは当然、「無い」という根拠を見つけるのが難しいからです。
嘘というのは、真とは相反にある概念です。しかし、解釈の域では誰かに嘘と言われようが、真である解釈は存在してしまうということを忘れてはなりません。
そして、私たちは解釈であることを忘却しては「事実」として発信してしまうことがあります。いや、ほとんどの言葉がそう紡がれてしまう。
一種の記号論的な、いや、もっとスケールの大きい「論理」としての存在そのものが解釈で発信されてしまう。それがこの世の中です。これらの文章もそうです。
しかし、だからと言ってそれが誤りだということではありません。解釈を解釈し、更なる解釈を与える解釈を発信してもコミュニケーションが取れるという不思議な力を我々人間は持っています。
ガダマーの解釈学をご存知でしょうか。私が今してきたお話に少し似たような思想を引用します。
学問的な認識でなく、解釈をもってして真理を理解する。そして、彼の独自のテクスト論(=テクストが人間を解釈させる)が、理解と合致しない時、私たちはそれを疑い始めるという考えです。
ガダマーの主張には定義や概念規定が薄く、学問的には受け入れ難い思想だと考える学者もいますが、解釈で真理を理解するならば、確かに彼の主張も解釈で理解しなければならない点でなるほどと言わざるを得ないのです。
間違いなく、我々は解釈の世界を生きているという話でした。
匿名論
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では、嘘という名の解釈がコミュニケーションならば、匿名におけるコミュニケーションに解釈は生まれるのでしょうか。
というのは、コミュニケーションはコミュニケーターが前提として成り立ち、匿名は「無い」ことを解釈させる存在であるため、概念上の矛盾が生じます。
少しくらいは『展覧』に触れていきましょう。
展覧を捨て垢で投稿した理由には二つあります。
1つ目は、もともとボカロリスナーとしての繋がりがあった人に通知が行き渡り、聴いてもらい、伸びてしまうのが少し嫌だったからです。というか、なんかズルくない?って言われたらそれまでだからです。
2つ目は、展覧会に展示される作品は「作者が手に持って」展示されるわけではないからです。作者の手元から離れ、テクストで名前が綴られ、展示される。それは偽であることを作者しか知らないのです。この作品(展覧)は私(また切ない世界を生きる)にしか事実を知る権利がなく、リスナー様方には私という偽か真かわからないようなテクストと作品から解釈する真実しかないのです。
リスナーにとっては、この時点(展覧を聴いた時点)でこの展覧という作品に関する「また切ない世界を生きる」とは名前が偽かも真かもわからない「零者択一」、つまり私により匿われた私の名、匿名の概念に成ってしまいます。
これを例に帰納すると、匿名は、コミュニケーションの解釈を確実にする手段と言えるのではないでしょうか。
匿名であるからこそ、解釈は広がり、知られたくないコミュニケーションの事実は作者本人だけにしか分からない。
「死」の恐ろしさと劣等耽美
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急に楽曲解説っぽい話に入っていきます。
前述した二つの考えがあってこその話になるので、飛ばしてきた奴はもう一度始めから読み直せぇ!!!!!!
「死」には様々あります。社会的な死、生物的な死、趣向的な死、機能的な死etc...
それら全て、綴ってきた人生であれ、進めてきたゲームのデータであれ、培ってきた顧客満足度であれ、「過去」になります。
みなさんは過去に行けますか?自由に過去と現在を行き来できますか?
無理ですよね。
では、過去を証明できますか?
これは「モノ」として残っている必要があります。しかし、実際は9割9分の「モノ」が「テクスト」であることを忘れてはなりません。
それを「歴史」と言います。
展覧のサビで連呼される過去の芸術家達の名前とエピソードは全て「テクスト」にとっては「嘘」です。そして、韻を踏んだ劣等色の歌詞が続きます。
テクストは歴史、歴史は過去、しかしテクストは我々を解釈させるもの。
つまり、過去は解釈であり、事実には及ばない真実であります。
一概に性質そのものが違うため真実が事実に劣るとは言えませんが、「私(また切ない世界を生きる)」にとっての展覧に対する真実は本来性という点で劣等しています。
それと同じく、過去はその人生を歩んできた人やその機能の発明者やそのデータの所有者にとっては劣等した何者でもないのです。
死とは、現世における自らの劣等だけを置いてけぼりにしてしまうことです。
皆さんは、死にたいと思ったことがありますか?
その時、何かの劣等があったはずでしょう。
例えば、いじめられていただとか、家庭内が荒れていただとか、お金がないだとか、はたまた病で急に不安になるだとか。
それは「そうでない」場合には死にたいとは思いませんよね。
もし、お金があったら、もし、良い家庭環境であれば、あなたは死ぬことを望むことはないでしょう。
つまり、本人の「本来あるべき人生」に対する解釈から劣等した現実にその欲求が表れたわけです。
しかし、冷静に考えてみてください。その解釈の劣等から、死という過去の劣等を選ぶだなんて泣きっ面に蜂ではないでしょうか。
いや、もうヤケになってこれくらいがいいとか思ってるかもしれませんが、その劣等を「昇華」できることがあります。
それは、耽美するのです。ひたすらに、劣等を耽美してください。
耽美とは、美の世界に陶酔することです。劣等にしかない耽美がそこにはあります。
あなたが美しいと思ったものを「美しい」と思えるそれ自体がその世の最高にあたる価値なのです。そして、劣等しているとき、普遍的な価値観では捉えられない「あなただけの美」がそこにあります。
耽美することは、解釈でも事実でもない、「その人の感じる美」であり、また、「その人にしかできない」ことです。ましてや、当たり前の世界を美と感じ取られる世界だとより多くの美に出会えるのです。
例えるのならば、お金がないという劣等を抱く人間は、普段三食に加え間食をとることを当たり前に生きている人間より「普段三食に加え間食をとること」を美に感じ取ることができるのです。
結局、『展覧』とは
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ここからは、あなたが綴る番です。
終わり
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