鯨に会いたい
鯨に会いたい
胡桃
鯨は冬の季語となっている(現代俳句協会の歳時記では通季)。鯨の多くは、日本海近海に冬に回遊し、おもに西日本では鯨肉の旬は冬だった。
スーパーに鯨の刺身が売っていた。ついどんなものか買ってみた。でも、少し生臭くてわたしは一切れ食べてやめた。残りは夫が食べてくれた。鯨がスーパーによく並ぶようになったのは、商業捕鯨が行われているためかもしれない。
二0一八年十二月、日本が国際捕鯨委員会(IWC)を脱退して、約三十年ぶりの商業捕鯨を再開することになった。IWCを脱退すると、捕鯨ができる海域は日本の排他的経済水域内に制限され、南極などの公海では捕鯨ができなくなるそうである。
釜石育ちの夫は子どもの頃に港で鯨が解体されるのを見たという。「すごいにおいだった。魚ではなく、獣のにおい。哺乳類だからね」という。もともと三陸沿岸は鯨漁が盛んだった。
しかし、わたしは海を泳いでいる鯨に会いたい。刺身ではない。
仙台の息子の家に泊まったとき、「鯨が見たい」と話すと、「牡鹿半島の鮎川にクジラランドがあるよ」と教えてくれた。「鯨が見られるのか」と食いついたら、そんなはずはない。鯨の骨が展示しているらしい。鮎川は捕鯨の港だとのこと。
まずは骨でもいいから鯨に会いたいと、次の日、鮎川港へ行く。「おじかホエールランド」の入り口に全長一六メートルのマッコウクジラの骨が展示されている。とても立派だ。骨だけでも威厳がある。
わたしは、給食で鯨の竜田揚げを食べた世代である。鯨のベーコンも食べていたけど、少し苦手だった覚えがある。
牡鹿半島のお土産に鯨の竜田揚げと鯨ベーコンを買った。竜田揚げは味が濃すぎて鯨の味はわからない。ベーコンは上品に晒し過ぎて癖もなく、味がしなかった。夫とノスタルジーの味は再現できことを確認した。
水温む鯨が海を選んだ日 土肥あき子
鯨は陸で生活していた動物だった。カバの遠縁にあたるといわれているが、五千万年前、鯨は海へと戻っていった。もしかしたら、食うか食われるかの世界についていけず、ふと、暖かくなった日に海の食糧に目をつけたのかもしれない。鯨はどんどん大きくなって、海の食物連鎖の頂点へと登っていった。一番の天敵はシャチといわれるが、ヒトというものが現れた。
牡鹿半島から帰って来てから鯨の本を読み、ドキュメントや映画をみた。捕鯨船の上で捕りたての鯨を食べる様子は涎が出る。捕りたては美味しいのだろう。
自分は鯨のことを何も知らなかった。鯨のブロー(潮吹き)は鯨の呼吸だ。海面に頭を出して噴気孔から吐き出した息が外気に冷やされて白く見えるそうだ。また、鯨の睡眠は半球睡眠といって、右脳と左脳をそれぞれ交互に休ませ、からだを動かしたり呼吸をしたりしながら睡眠をとることができる。「龍(りゅう)涎(ぜん)香(こう)」という高級な香料の原料は、マッコウクジラの腸の中でできる。あげればきりがないほど、面白いことが多い。
そして思い出した。山田町に「鯨と海の科学館」があったことを。山田町へ車を走らせる。ここには、マッコウクジラとミンククジラの骨格標本がある。津波の被害を受けても蘇った奇跡の鯨だそうだ。
骨格標本を見れば、胸ヒレの骨は人間の手の骨を巨大にしたような五本指がよくわかる。これは陸生動物だったときの名残といわれている。骨格標本をつくるには、骨を三年間砂に埋めて脂分を抜くなどの根気のいる仕事だということも知る。
捕った鯨が昔のように捨てることがないようにと願う。
わたしの小学校時代、教科書には鯨の部位をあますところなく利用すると説明した図が載っていた。食用肉、油、櫛や皮製品、捨てるところがないと教えられた。
いまはどうなのだろう。売れ残った刺身を見て思う。
鯨がこの世界にいるというだけで、わたしは気持ちが大きく広がる気がするのだ。今、脳内に鯨を飼っている。頭がモヤッとすると、大海原を泳ぐ鯨を想像し深呼吸する。
人はもう海に帰れない。文明という鎖から抜けることはできない。でも、海はわたしたちの身体の中にある特別な故郷なのかもしれない。本物の鯨にぜひ会いたい。
大年の海原叩け鯨の尾 遠山陽子