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「例え」大好き人間の脳内リハビリ

今日は暑いですね。10月とは思えないほど良い天気ですねぇ。

今日は文章を書いていく上で、自分が感じた疑問や不安、ここでは”何かに例える怖さ”について正直に綴っていきたいと思います。

 私は文章を書く際、よく例え話をします。

例を挙げると、私は大学で歴史学の近現代史を専攻しており、その授業でよく「歴史学が果たす役割とは?」というレポートが課されるのです。正直な話、歴史学の真髄に全く及んでいない学生が書けるわけありません。ですが、課題を出さないと単位がもらえないので、挑戦しなくてはなりません。こういう時、大体私は歴史学というものを何かに例えてレポートを進めます。前回は、「フランス料理」に例えました。その時、記憶の限りでは、「歴史は現代を生きる人々に味わってもらう料理だ」などと、記述していたはずです。内容をより掘り下げると、明治時代の貴重な税関係の書類が出てきたとして、ただのお宝ではなく、それを見つけることができたのは日々の絶え間ない文化財管理や行政の努力の結晶だということを認識しなければなりません。同時に人々が税に疲弊したことをあらわす史料であることを知る必要があり、それを私は「歴史という料理を理解する上で欠かせない「苦味」(=苦労)」と表現したのです。

 その時、かすかな疑問が出てくるわけなんですよ。「何か」に例えて書いていれば、それで満足できる自分がいるのです。そりゃ、その例えのおかげで良い文章だと褒められるともちろんうれしいですが、何か強烈なもどかしさを感じる自分も同時に存在するのです。

 このような違和感をもたらす「比喩表現」について、もう少し詳しく説明したいと思います。

ブログやレポートで、私は非常に自分の書く文章というものに敏感になりつつあります。それらのクオリティを言及されたら、先人たちの偉大なる累積にはとても敵いませんが(笑)それらの場で、私はほとんどの文章に、比喩表現を使ってきました。大学の別のレポート課題では「学歴は武器にはなるが、相手にひけらかすアクセサリーにはなってはならない」といったような例えを使いました。

はっきり言って、比喩表現はとても利便性があります。自分は比喩表現を用いる時、そのテーマとなる事象を「例えの土俵」にひきづり込むイメージが頭の中にあります。これさえできれば、実はもう勝利同然なのです。

元々の「事象の論理」を「例えの土俵」にひきづり込んだ瞬間、今度はその「例えの論理」で話を進めばいいわけですから。

始めの方で提示した、歴史学をフランス料理に例える話では、歴史学をまずフランス料理という「例えの土俵」にひきずり込みます。そこから、「歴史は現代を生きる人々に味わってもらう料理だ」と書きます。そしたら、「その料理の中には、珍しい歴史史料という素材だけでは満足できないこともある」と続けていくと、段々と「事象の論理」=「歴史学の論理」ではなく、「例えの論理」=「フランス料理」に話がしれっとシフトしていくのです。極めつけは、「それら料理を満足するにはある調味料が必要となる。それは「苦味」である。「苦味」は料理を深い味わいにするように、歴史にも珍しい資料ばかりではなくその時代で苦難をしかれていた「苦味」が不可欠なのだ」と結論に持っていけば、完全に「事象」→「例え」の話になるのです。この状態を「例えの土俵」にひきづり込むと勝手に呼んでいます。このモードに入れば、レポートを自分のペースで書くことができるのです。小難しいそうな「歴史学の論理」にイチイチ付き合ってレポートを書かなくてもよいのです。「料理」で話を進めた方が明らかに分かりやすいですし。これが「例え」を使う最大のメリットだと思います。(気づいているかは分かりませんが、私は「例え」を用いる姿勢について「土俵」という言葉で実はすでに例えていたんですね(笑))

  しかし、こういう手法(実は全然大したことない)を多用してしまったせいか、最近副作用なるものにかかっているのです。それは「例え」が全面に押し出されているせいで、本来の「事象」(=例えられる側)について深く考察ができていないということです。あの「歴史学を果たす役割とは」というレポートも、最後は「料理」に沿ったまま、話が完結してしまいました。「事象」→「例え」→「事象」でやらないと、レポートではなく、ただの「比喩表現トレーニング」で終わってしまうのです。

今回の事柄に付随する関係で、世間を賑わせてくれたのが、あのキングコング西野さんの近畿大学卒業式で行なったスピーチなんですよね。私は非常にあのスピーチに関心があります。

【近畿大学卒業式】キンコン西野の伝説のスピーチ全文① | 西野亮廣ブログ Powered by Ameba

動画を見ていると、その場の雰囲気をコーディネートする能力は卓越しているなと強く実感しました。しかし、スピーチのスクリプトを見ると、少々疑問が出てくるのです。それは最後の「時計の例え」のところですね。西野さんは、「皆さんには努力が報われない時がありますが、必ず報われます。時計の11時台のように2つの針が重ならない時もありますが、12時には必ず重なるように。。。」とおっしゃっていたと思います。まず「努力の論理」=「事象の論理」を「時計の論理」=「例えの論理」に当てはめていましたね。そこから上手いこと、「時計の論理」を前提に話を進めていました。しかし、スピーチの尺もあったのでしょう。最後は少し雑に結論付けていたかと思われます。賞賛もありましたが、それが火種となって世間では大きく炎上していました。私も時計の例えは良かったと思います。スピーチ自体もわかりやすくてスーッと頭の中で理解できました。

しかし、私はこれまでに比喩表現しまくってきた「比喩表現中毒患者」でもあるので、あのスピーチを100パーセント賞賛することはできません。なぜなら、例えとしての「時計の論理」に加担しすぎて、例えられる側の本来よく考えるべき「努力の論理」を軽視していた気がするからです。西野さんほどの方なら、並大抵の努力をしていないはずです。しかし、「例え」の時計の話に時間を割きすぎて、努力の話をしようとした時、内容が軽く浮わついたものになってしまったのです。わかりやすい分、賞賛はあったと思いますが、元々の「努力が報われる」話を重点的にかつ慎重に述べるべきだったかと思います。それが欠けていたため、ネット上で大きく波紋を呼んだのでしょう。

安直な例で話を片付けると、浮わついた放言になってしまい、極論すると「人生はマラソンだ」みたいなことを、あたかも持論かのようにドヤ顔で言うオッサンになりかねません。そして、それを言葉で話すのならまだマシです。その場の雰囲気で酔いしれさせればいいわけですから。

しかし、文章の世界は厳しいものです。文字はそこらへんの弱点を容易に付かれます。西野さんのスピーチを賞賛する一部の世間とは対照に、疑問を持つ人はこの世界にたくさんいるでしょう。私もギリギリ後者の立場かなと。残念ながら、私は西野さんみたいに上手くプレゼンができないので、なおさら苦労しそうです。もっと本質に差し迫った、安直な「比喩表現」で結論付けない文章を書けるようになりたいものです。

今日は悩める1人の大学生の脳内をリハビリしたつもりです。文章を書くのって、ほんまに難しいねえ。アハハハハ。

https://youtu.be/
ウィル・スティーヴン
「頭良さそうにTED風プレゼンをする方法」
個人的に好きな動画なので紹介します。

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