『いしょ2』(『ガムテープで風邪が治る』より)
いきているひともいれば
しんでいるひともいる
いきていればきっといいことがある
というのは
いきているがわのろんりである
しんでいるひとにはくちがないから
はんろんできないというだけのことで
いきているひとのなん10ばいも
しんでいるひとはクールなのだ
ひとはうまれつきふこうへいにできていて
1どしんだだけでおわってしまうひともいる
たくさんしぬことができるひとのほうが
しあわせだとはかならずしもいいきれないが
どちらにしてもいのちのかずなんて
しんでみるまではわからない
だいたいぼくらくらいのとしになればだれでも
1どや2どはしんでいるものだが
なかにはストレートにいきてきたひともいて
どちらがいいかはやはり1がいにはいえない
すんなりいきていくことのできるひとに
わざわざしぬことはおすすめできない
1どくらいしんだやつのほうがほねがある
というのは
けっかとしてしんでしまったがわのろんりだ
しんでそのままほねになったらおしまいだし
しんだというじじつは1しょうつきまとう
あまりしんでばかりいると
まわりのひととのギャップがひどくなり
ふけこんだりわかぶったりするのがおちだ
それにしてもぼくはなんどしんだのだったか
いつでもさっさといきかえってしまうから
くりかえししんでしまうのかもしれない
ゆめでしねるようになってからは
げんじつではしなないようにきをつけてきた
だがゆめのビルからとびおりたとき
げんじつのぼくもまどからころげおちていた
そんなきがしないでもない
ときどき1どもしんだことがないような
きがしてしまうのはゆめをみすぎたせいか
いまのじぶんはほんとうはしんでいて
しにたいきもちはいきたいきもちなのだと
おもってもおもわなくても
じんせいはつづいていく
ぼくはしぬのがすきだ
それはうまれるのがすきだからなのだろう
うまれるときのかんじをあじわいたくて
いきかえるときのかんじでごまかしている
いきかえるのはいいがそのあとがつまらない
つづくのがいやでくりかえしてしまう
このままじゃいけない
いのちがいくつあってもしぬときはしぬのだ
きょねんは1しゅうかんほどしねていたのに
こんかいはたったの1にちだった
そうしきをあげるひまもなく
さんざんわらわれてしまった
せめて1ねんくらいしにつづけていたなら
すこしはどうじょうしてもらえたのだろうか
いっそ10ねんくらいしにつづけていれば
ぼくをおぼえているひとなどいなくなって
なにもかもわすれてやりなおせるのだろうか
とにかくぼくはいきはじめてしまい
いしょのつづきをかかなくてはならない
(つづく)
NHK『詩のボクシング2』でチャンピオンになったとき最後に読んだ詩です。初出「現代詩手帖」1992年8月号(選者=高橋順子)。書いたのはもっと前、二十歳のころです(書いてすぐ「現代詩手帖」に投稿したけれど載らなかった。あるとき気が向いてタイトルだけ変えて再投稿したら載った)。この詩が含まれた詩集『ガムテープで風邪が治る』は1995年9月23日刊。のちに刊行された『愛蔵版 ガムテープで風邪が治る』(絵=内田かずひろ、帯文=保坂和志)の新品は現在、葉ね文庫と枡野書店のみで発売中です。詩集にしては売れた本なので、古本市場に中古品は結構あると思いますが、ものすごく傷みやすい白い本(透明プラスチックケース入り。何も印刷されてない白い帯が付いてるのが正しい姿)だから、美品はもうほとんど残ってないはずです。
もしお役に立ちそうな記事があれば、よろしくお願いします。