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#FUKAIPRODUCE羽衣 について書いた劇評たち。初出、すべて「#テレビブロス」より。#枡野と短歌の話

2014年の枡野浩一のベスト演劇(抜粋)

 FUKAIPRODUCE羽衣『女装、男装、冬支度』は、まず冒頭から結末まで背景に雪を降らせ続けた裏方の努力がどうかしている。普通こんな案が出ても実現されない(クライマックスだけ紙の雪が降る演劇はよくある)。タイトルにある女装と男装の登場のさせ方もどうかしている。ひとつのシーンをリフレインする演出が演劇界で流行したけれども、本作くらいのアイデアがないとリフレインはだめなんじゃないかと思わせるほど圧倒的。しかしこのアイデアも冷静に考えるといったい何だったんだとあきれる、どうかしているアイデア。観てから数ヶ月経った今、ストーリーは何ひとつ思いだせないが、踊りながら披露されるオリジナルの歌たちが脳裏から離れない。出演者の熱演ぶりもどうかしていて、私は別の作品に出演させていただいたことがあるのだけれど、「そんなの無理」と後ずさりしたくなるプランが狂おしい情熱によって現実化していくさまにおののいた。今最も観るべき劇団。とっつきにくくて私も最初は受け付けなかった。同劇団が開催する音楽のライブあたりから、免疫をつけていくのがいいと思う。
2014年12月6日(土)  執筆




<アダルトなNHK「みんなのうた」>が
<NHK「みんなのうた」>に挑戦したミュージカル

 子どもに見せたい舞台vol.9『アンデルセン童話集』を、大人だけど観た。自分の子が小さかったら連れて行きたかった。客席は思った以上に小さな子たちで埋まり、泣き声が響いた一瞬はあったものの、みんな舞台に夢中だった。終演後「たのしかったね」「よかった」と語り合う子たちを目撃した。
 作・演出・音楽を担当した糸井幸之介は劇団「FUKAIPRODUCE羽衣」の要で、しかし主宰ではない。主宰は今回「お月さま」役で出演していた女優の深井順子。十名の出演者のうち半数が羽衣の正規メンバーだったが、いつもの羽衣と大きく印象がちがったのは、性的な要素が排除されていたからだろう。
 もし今回の舞台を観て、羽衣の別の舞台も観たいと思ってしまったお母さまお父さまがいたら、お子さんを連れていくのは大人だけで一度観てからにしたほうがいいですよ、とアドバイスしたい。糸井幸之介のつくるオリジナル曲は、普段は「アダルトな『NHKみんなのうた』」といった作風なのです。
 ミュージカルなのに妙だから、「妙ージカル」と称されていたこともある。普段は出演者が呼吸困難を起こしそうなほどの熱量が特徴的で、言葉の正しい意味で「祝祭」のさなかにいる高揚感を味わえる。憂鬱な要素も多いのに、世界を肯定的にとらえるエネルギーが強烈で、出演者ひとりひとりの存在が「祈り」のよう。かぶる芸風の劇団がほかに見当たらない。観終わったあとの幸福感が物凄い。
 主宰の深井順子は唐十郎の「唐組」出身で、ある時期まで羽衣はアングラ色が濃かった。試行錯誤を重ねて公演ごとに新しい世界をみせてくれる彼らが、最大の武器である大人要素を手放すのは冒険だったと思う。結果、NHK「みんなのうた」で、あす披露されてもおかしくない名曲たちが誕生した。
 童話作家志望の「アンデルセン」と、彼の部屋に夜になると遊びに来る「お月さま」が語り部となり、五つの童話が披露されていく構成。
 アンデルセン童話は、伝承されている原作を、ほぼ忠実に再現しているという(深井順子談)。裏返すと歌詞カードにもなる、ハサミで切って山折り谷折りすると小冊子になる『アンデルセン童話集あらすじ』が劇場で配布された。『はだかの王様』『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』はもちろん知っていたが、『さやからとび出た五つのエンドウ豆』は初めて知った変な話で、これをチョイスするセンスに脱帽。
 ステージ上でめまぐるしく着替えが行なわれたが、その大量の衣装(担当=竹内陽子)がいちいち素晴らしかった。とりわけ人形姫の人魚時代のドレスは、ごく自然な造形なのに人魚にしか見えない。
 そういえば今回「王子さま」を演じた劇団員の澤田慎司が羽衣の野外公演で、大勢の子供たちに囲まれてわかりやすくモテているのを見たことがあった。羽衣と子供たちの相性は、想像していたより良いのかもしれない。この路線、続けてやってほしい。(枡野浩一)
2015年8月18日(火) 執筆



糸井氏の仕事の集大成を宣言するかのような

 長い! そして前半わかりにくい! という第一印象。しかし観終えたときの満足度は物凄かった。
 FUKAIPRODUCE羽衣の作・演出・作詞・作曲・美術その他を担当しているのは糸井幸之介だが、主宰は女優の深井順子。フカイプロデュースとは深井順子プロデュースの意味で、その関係性もわかりにくい。
 おそらく糸井氏の表現があまりに独特なため、女優である深井氏が肉体的に翻訳しないと俳優陣がついていけないのではないかと想像している(じつは筆者はこの劇団の公演に二度参加したことがあるのだが、それでもなお二人の関係性は「想像」するしかなかった)。
 客演は毎回いるものの役者陣はわりと固定されており、昨今流行の「主宰だけ固定、そのつど出演者を集めるプロデュース公演システム」ではないところもポイント。すべての出演者に見せ場があるようにつくられているから長いのだ。
 しかも演目はミュージカルである。妙だから「妙ージカル」と称されることもある。曲は一度聴いたら耳を離れないほどキャッチーで、詞はNHK「みんなのうた」をアダルトにしたような感じ。ダンスや歌の巧い人とそれほどでない人が平気で共存している。バラバラの個性をまるごと面白がるという、狂おしい挑戦が素晴らしい。この宇宙とはそのような混沌であるという糸井氏の世界観なのだろう。羽衣の公演を観ると、残酷な世界から肯定された幸福感に満たされる。
 もともと不倫を題材にすることの多かった糸井氏だが今回、あらゆる登場人物が不倫関係にあるかのような、どうかしている世界をつくりだしていた。一夫多妻である国王の、たくさんの王妃たちが、ぞれぞれに「ツバメ」=男を飼っている。そのツバメたちがひとりひとり歌にあわせて踊るシーンは美しくもばかばかしい。音が不安に濁って歌い終わる楽曲があり、歌い手がオンチなのかと一瞬思ったが、全員が同じところで濁って歌い終わった。さすが妙ージカルである。
 深井氏は唐十郎ひきいる「唐組」出身で、初期の羽衣はアングラ色が強く、詩的かつ独白的だった。最近では散文的かつ対話的なシーンも増えてきたのだが、本作はそんな劇団の進化をたどるような構成になっていたと思う。休憩をはさんで後半が始まると、急に親しみやすくなり、伏線が回収されるにつれて長さが魅力につながった。
 出演者全員に魅了される。とりわけ劇団員のキムユス氏が予想外のキャラクターをみせた不倫カップルの挿話が秀逸で、ここだけシングルカット的に短編小説化してほしいと思うほど面白い。不倫の相手は深井順子で、彼女が羽衣という希有な浮遊感を持つ集団の要であることが改めてよくわかった。
 糸井氏の仕事の集大成を宣言するかのような『イトイーランド』という題は、ディズニーランド的なもの、あるいはソープランド的なものだろうと予想していたのだが、両方ハズレた。なんと深夜営業の健康ランドを舞台としていたのだ。まいりました。(枡野浩一)
2016年4月22日(金)



2016年枡野浩一のベスト演劇(抜粋)

 FUKAIPRODUCE羽衣『イトイーランド』。この劇団は初期メンバーが「唐組」出身で、かつては化粧や衣装などアングラ色が強かった。最近は比較的ポップになってきたが、そういった劇団の進化を、改めてたどりなおすような振幅のある本作の達成度に震撼。心地よさとは別の苦みも味わえる「妙ージカル」。
2016年12月16日(金)





愛は死に、人は死ぬ。
その一部始終を一気に描く、祈りにも似た試み

 芥川賞作家の保坂和志氏が昔「小説」と対比する概念「詩」を説明するとき、「詩は世界を一気につかもうとする表現形式」と言った。その意味でFUKAIPRODUCE羽衣の作・演出・作詞・作曲・美術その他を担当している糸井幸之介は、詩人だと思う。その戯曲は対話のように見えて多数のモノローグの重なり合いでもある。そのモノローグはいつも、世界の最初から最後まで、人生の最初から最後までを一気に描こうとする。その無茶としか思えない、勝算のない祈りに似た試みに茫然とし、感動する。
 この『愛死に』の初演は2010年。私が初めてふれた羽衣作品だ。初演時は「見方」がわからず寝た。同じ曲を何度も絶唱する「妙ージカル」のスタイルにも慣れていなかった。うとうとして目ざめても同じ曲が歌われていた。緩急がなく「急」ばかりで、物語があるのかないのかもよくわからなかった。
 羽衣は作中の楽曲を前面に出した音楽ライブをやることがあり、それに魅了されているうちに私は免疫がついた。『愛死に』のメインテーマであった曲『茜色水路』は、しみじみ傑作だと今では思う。
 七年後の今作は「再演」とは名ばかりの別の作品だった。同じ曲のリフレインもストイックだった。
 ロミオとジュリエットのような、いかにも演劇演劇した舞台美術がステージに用意されていた。が、それは開幕すぐに消えてなくなってしまう。だれもいない劇場に迷いこんだ不良の男女カップルが語り部となることで、この作品が「もう死んでいる者たちのたくさんのモノローグ」であることが客席に伝えられる。印象的な曲線を持つステンドグラスのような「窓」がステージに複数浮いており、それはやはり死者たちが歌って踊る過去作『女装、男装、冬支度』に登場した「墓石」と相似形だった。
 世界中のすべての演劇を観たわけではないから狭い経験の中での話だけれど、今作、「これは観たことのない演出だ」と三回驚いた。一回目は、せっかくの舞台美術があっさり台無しになるイントロ。二回目は、出演者全員が言葉を吐きながら、爪先立ちで少しずつ舞台上を移動する「ダンス」。どのように練習したのか想像もつかない奇妙な織物のような動きだった。
 三回目は終幕、死者たちが舞台から一人ずつ去っていくところ。「それを最後まで省かずにちゃんとやるのか」と呆れた。一挙に去ったほうが舞台映えはしただろう。しかし演出家は舞台映えではない別のものを優先したのだ。天才だ。
 愛というものが死ぬこと。あらゆる人が死ぬこと。糸井氏はそのことをくりかえし作品にしている。その徹底度はとてつもなく、氏が岸田戯曲賞にノミネートされたことがないのは気の毒でならない。前例のない「妙ージカル」は紙の上の戯曲を読む人々には伝わるまい。
 糸井という姓のせいで血縁関係にあると誤解されるらしい、あの糸井重里氏が噂をきいて初観劇したらしく、ツイッターに鋭い感想を書いていた。必読。(枡野浩一)
2017年6月19日(月) 20:32









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