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『運動おんちの君へ』文=枡野浩一(無料公開中)

【初出=金子書房「児童心理」2013年11月号】


 人間は不公平だ。生まれつき能力の差があって、努力してもその差は少ししか縮まらない。少しは縮まる。でも、ほんの、少しだけだ。

 現在44歳の僕はそう信じて疑わない。もっともっと子供のころからそれを知っていたら、もうちょっと子供時代が楽だったかもしれないと思う。だから、まだ子供である君に、今、こうして話しかけているんだ。こんにちは。

 僕は運動おんちだ。『僕は運動おんち』(集英社文庫)という青春小説を書いたこともある。この世で、僕ほど運動おんちの男は珍しいはずだから、この題で小説を書いていいのは僕だけだと確信して書いた。小説だからフィクションも混じっているけれど、運動おんちすぎるエピソードは、ほぼ全部実話だ。高校時代の自分をモデルにしていて、高校時代の同級生たちに手伝ってもらって書いた。小説連載中、運動のできる当時のクラスメイトが「枡野くんの運動おんちぶりはそんなものじゃなかったよ、もっとすごかったよ」と言って、バレーボールの練習試合での一コマを思いだして詳しく描写してくれた。それはもう僕が忘れてしまっていたエピソードだったけれど、あまりにも面白かったので、小説の中に彼の書いた文章をそのまま引用させてもらったくらいなんだ。今なら自分でも可笑しくて爆笑してしまうけれど、当時の自分はつらかったと思う。つらいという気持ちを見ないようにしていた。頭の中を真っ白にして、体育という拷問タイムをやり過ごしていた。

 運動のできない君が、女子だったらまだいいけれども、男子だった場合、人生が終わってしまったように感じているだろう? 実際、小学生中学生のころには、運動のできない男子なんて、クラスの隅っこで小さくなっているしかなかった。高校だと周囲の友達も大人になるから、少しはマシになるのだけれど、まあ学校というものに通っているうちは、運動のできる人が人気があって、そうでない人は息を殺してヘラヘラ過ごすしかなかった。

 そもそも小学生のとき、「体育の時間より作文の時間のほうが楽しい」と僕が正直な気持ちを言ったら、信じられないという顔をした男子がたくさんいた。体育が好きな男子にとっては、体育の時間は「楽しい遊びの時間」なんだよね。やっぱり人間って、不公平だ。

 僕は結局、小学生のときから好きだった作文くらいしか得意なことがなくて、大人になって文章を書く仕事についた。あまり売れてないし貧乏だけど、毎日好きなことしかしていない。運動なんてしない。散歩はするけど。

 むかしは、からだを動かすことが善で、運動しないのは悪と思われていたけれど、最近は「程度問題」だと言われている。運動をしすぎると早死にするという統計もあるらしい。関係ないけどむかしは、子供は紫外線に当たらないとだめだと思われていた。今は紫外線はからだによくないと言われている。むかしは運動中に水を飲んだらだめと思われていて、今はちゃんと飲まないとだめと言われている。

 常識なんて、すぐ変わるんだ。僕が44年間生きてきただけで、いろんな常識が変化していった。大人たちが信じていて、子供に「こうするのが正しい」とすすめてくることが、ほんとうはちっとも正しくないかもしれない。

 学校の先生だって、教科書だって、正しくないかもしれない。僕が子供のころ教科書に載っていて、今の教科書には載っていないことっていうのも、あるんだよ。研究が進んで、正しくないことがわかったからだ。世界はまだ発展途上で、人間にはわかっていないことがたくさんある。……話が、それてしまった。

 最初のほうに、努力しても少ししか意味がないみたいなことを言ったけれど、その考えをもう少し説明するね。よく言われることだけれど、努力できるってことも、才能のひとつなんじゃないかと、今の僕は思っている。

 「書くこと」に関してなら僕は、いくらでも努力できた。でも、最初から好きだったんだ。小学校に入ったころから、作文は好きで得意だった。好きで得意で、ほめられるから、ますます好きになっていった。たくさん文章を書いた。書けば書くほど、ほめられた。努力といっても、むしろ、たのしいものだった。

 運動ができる人も、同じなんだと思う。最初から、ある程度は好きだったんだろ。よく「最初は下手だったけど、がんばったら、うまくなった」とか言う人がいるけれど、それも程度問題だと思う。僕くらいの運動おんちだったら、がんばる気もなくす。多少がんばっても下手くそで、みんなに笑われるだけだから、どんどん運動が嫌いになってしまう。

 生まれつき向いてないことは、向いてないよ。だから自分に向いてることをさがしたほうがいい。学校の友達や先生に何を言われても、親に何を言われても、もし好きなことがあったら、それを徹底的にやったほうがいい。いろんなことがまんべんなくできる人よりも、ひとつのことが好きで、そればっかりやっているくらいの人のほうが、その道の専門家としては成功すると思う。もちろん、どんな道も楽ではないから、楽ではなくても続けたくなるような何かを見つけること。それが学校に通っている時代に、君が見つけるべきものなんだ。それは難しいことだ。にがてな運動をすることと同じくらい難しいかも。でも、「見つけたい」と思って毎日を過ごしているだけでも、だいぶ、ちがってくると思うよ。

 僕だって、運動に関して、努力をまったくしなかったわけじゃない。『僕は運動おんち』にも書いたけれども、小さいころからスイミングスクールに通っていたんだ。だから、いちおうは泳げる。でも、高校の時点で、クラスで一番タイムが遅かった。ほかの人よりたくさん泳いできたから、長い時間泳ぐことはわりとできるんだけど、スピードが出ない。

 体質の問題なんだと思う。じつは筋肉の質は遺伝で生まれつき決まっていると、最近の科学ではわかってきている。短距離走に向いている筋肉を持っていない人が努力しても、短距離走者として成功することはないそうだ。

 ほんとうは、重い病気にかかりやすいかどうかも、生まれつき決まってしまっていると、最近の医学では言われている。でもそれを言うと、皆が絶望してしまうから、医者はあまり言わないようにしているみたい。僕は専門家じゃないし、こういうのはいろいろな説がいくつも存在しているものだから、ここで僕が言ったことをまるごと「うのみ」にはしないでほしい。ただ、そういう考え方も、この世界にはある、ということを覚えておいて。

 大人になってから僕は、筋肉トレーニングをやってみたことがある。まじめにやったら筋肉はついて、見た目だけは格闘家みたいだと言われていたときもあるよ。でもやっぱり運動が嫌いだから、すぐやめてしまって、筋肉も落ちてしまった。筋肉があったときのほうがモテたから、またモテたくなったらトレーニングを再開しようと思う。その程度の適当な気持ちで、全然、いいと思ってる。(了)


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