【医療小説】Phantom Pig【ミステリー】

部山中央病院。

都市というほど賑わってもおらず、町というほど寂れてもいない。観光名所は2つ、3つあるだけで、県全体の観光ガイドブックでも見開き1ページ程度しか紹介されていない。そのような取り立てて特徴もない部山市にある総合病院のひとつが部山中央病院である。市の名前を冠しているが、公立病院ではない。少し離れたところに県立部山病院があり、先進的な治療はそちらで行われている。しかし、外科医としてここで働かせてもらっている私から言わせてもらえば、部山中央病院も市民のインフラとして貢献している地域にとってなくてはならない存在だ。非常に忙しく、やりがいのある職場でもある。

「中岡先生、知ってますか。昨日の夜、このHCUで幽霊が出たそうですよ」

部山中央病院のHCU(高度治療室)病棟にあるナースステーションで電子カルテを操作していると、後輩の外科医である田崎が隣に座り、話しかけてきた。
HCU病棟は重症の患者が多く、病態ごとに細やかなケアや病状の急変への速やかな対応をするために、ナースステーションから患者たちの様子が一望できる構造になっている。担当患者のドレーンを手にとって観察する田崎の姿も見えていた。担当患者の診察が終わったため、カルテの入力をするためにこちらまできたのだろう。
私は田崎の馬鹿な発言に呆れた。手術室での集中力はすごいが、病棟での田崎は緩んでいる。手術の助手をするときも執刀医の先を読み、的確に介助をしてくれる。ただ、その心を読む能力を手術室以外でも発揮してほしいものだ。田崎は良くも悪くも外科医らしい性格をしている。
田崎に対してなんと返答するか悩みながら、幽霊ねぇ…と考えを巡らせる。
ふと、幽霊が出るとしたらもしかしたらあの方かもしれないと、一昨日の夜に急逝された患者のことを思い出した。下山さんは私が担当する患者ではないし、診療科も違う。けれど、私が最期を診た患者さんである。

* * *

HCUは一般病棟に比べると患者あたりの看護師の数は多い。しかし、ICU(集中治療室)と違って医師が常駐しているわけではない。看護師の目で患者の急変をすぐに察知することができても、医師の手が間に合わず不幸な結果を招くこともある。

下山さんは、まさにそれだった。

一昨日の夜、私は一階の救急外来で当直をしていた。当院には救急医が1人いるが、1人だけで救急外来を24時間365日稼働させることは不可能なので、夜間は救急科以外の医師たちが持ち回りで救急当直をするのである。部長クラスは月に1回程度であるが、若手や中堅の医師は月に数回は当直をする。
重症患者は人材が充実している県立部山病院の方へ搬送されるため、当院は比較的軽症の患者が運ばれてくる。正直に言うと、なぜ救急車を呼んだのか問い詰めたくなる非常識な軽症患者も多く、救急車の受け入れを断ってしまいたい衝動にかられることもある。しかし、当院が断ると、県立部山病院に送られて重症患者を救うためのリソースが消耗されてしまう。そのため、部山市の救命救急のためと割り切って、可能な限り救急車を受け入れるようにしている。
県立部山病院と当院はある程度住み分けをして救急車を受け入れているため、当院にやってくる救急車の数にはムラがある。数台やってくる夜もあれば、ほとんど来ずに朝を迎える日もある。
下山さんが亡くなった日の夜は救急搬送の救急車が2台だけで、自力で救急外来を受診した患者たちも処置を受けて帰っていった。一段落したところで時計を見ると時間は夜の12時を超えていた。患者がいないうちに眠るべく、当直室へ向かった。当直は夜勤ではない。翌日も働かなくてはならないのだ。少しでも寝なければ、身体がもたない。
しかし、当直室に向かう途中で私の院内PHSが鳴り響いた。ナンバーディスプレイにはHCUと表示されていた。

「先生! 耳鼻科の患者さんなんですけど、息がおかしいんです。耳鼻科の柳本先生にも電話をしているんですけど、もう帰宅されていて病院に戻るのに時間がかかりそうなんです。すぐ来てもらってもいいですか?」

看護師の焦る声を聞いて、私は「すぐ行く」と短く答えて駆けだした。救急診療で何よりも先に確認することはABCである。Airway 気道、Breathing 呼吸、Circulation 循環の3つである。どれかひとつでも異常があると命に関わる。看護師が「息がおかしい」と言っているということは、AかBに問題があり患者の状態は切迫しているということだ。HCUは5階にあるので、走らないと間に合わない。外科医はよく血を浴びるので拭き取りやすいようにゴム製の靴を履いている人が多いが、私は緊急時に素早く移動できるようにスニーカーを履いている。素早く患者の元へ駆けつけられれば、救える命もある。

階段を駆け上がり、ようやくHCUにたどり着く。
ベッドサイドに看護師が集まっていたため、急変した患者がどこにいるのかはすぐに分かった。看護師の背中越しに覗き込むと、患者はぽっちゃりした男性で、年のほどは60〜70歳代くらいか。首元にガーゼが当てられている。

「今日、こちらの下山さんは甲状腺全摘手術をされたんですけど、急に息がヒューヒューとしてきたんです」

看護師にそう説明されるが、患者の息はヒューヒューとはしていない。わずかな呼吸音すら聞こえてこなかった。鎖骨の上の皮膚が律動的にベコベコと凹んでいる。患者の顔は既に真っ黒であった。

気道……空気の通り道が閉塞して、呼吸が全くできていない状況である。私はひとつの可能性に思い当たり、首にあてられていたガーゼを剥がす。
やはり首がパンパンに腫れていた。

甲状腺は首の気管の前面にある小さな臓器である。周囲には気管だけでなく血管も多い。そのため、甲状腺全摘をするとき、耳鼻科医は特に止血をしっかりとする。これは術後に出血すると血腫ができて、気道を圧迫してしまうことがあるからだ。
下山さんに起こっているのは、まさに血腫による気道の圧迫が原因だろう。

血腫が原因であるとあたりをつけたが、血腫を治療するより先に気道閉塞をなんとかしないといけない。完全に気道閉塞をすると、5分で生命維持は困難となる。たとえ蘇生が成功したとしても、10分も呼吸が停止していたら低酸素脳症となり、脳に障害が残ってしまう。そして、30分も経てば確実な死が待っている。
いつから気道閉塞をしているのかは分からないが、私が連絡を受けてから駆けつけるまでの時間を考えると一刻の猶予もない。
バッグバルブマスクを患者の口にあて、圧をかけて酸素を送ってみるが、下山さんの胸郭が持ち上がる気配はなかった。気道が完全に閉塞している。

「挿管するよ!」

看護師に指示して、気管挿管の準備をする。
外科医が患者の口から気管にチューブを入れて気道確保をすることは稀だ。私も経験が豊富なわけではない。ここまで切羽詰まった状況で気管挿管をするのも初めてだ。しかし、患者の命のためにやるしかない。

気管挿管をするためには、のどの奥から気管の入口を探さなければならない。喉頭鏡を患者の口の中に入れ、入口を探すべく中を覗きこむ。のどにはネバネバした痰が張り付いていた。

「ああっ、痰が邪魔で見えない……」と小声で悪態をつきながら、痰を吸引で取り除く。

しかし、それでも気管の入口は見えてこない。首の腫れがのどに広がってきて、入口を覆い隠している。
ええい、ままよ! と見えないままチューブを押し込む。

チューブから酸素を送り込んでみるが、膨らんだのは胸部ではなく腹部であった。チューブは食道に入ってしまっており、胃が膨らんでいるのだ。これでは呼吸をさせることができない。

先端にカメラがついているビデオ喉頭鏡なら、目視では気管の入口が見えにくくても挿管ができるかもしれないと思い至った。しかし、ビデオ喉頭鏡は1階の救急外来には置いてあるが、ここにはない。HCUに来る前に取りにいけばよかったと後悔した。

「ビデオ喉頭鏡を救外から持ってきて!」

「篠木さんお願い!」とベテラン看護師が声をかけると、後ろでオロオロしていた若い看護師が走り出した。

それと同時に、患者の点滴につながっていたシリンジポンプから電子音が鳴る。看護師に聞くと、抗生剤セファゾリンの投与が終わった音だという。
手術の傷に感染を起こさないように、術後は抗生剤を投与する。ただ、抗生剤は他の薬剤に比べるとアナフィラキシーを起こす確率が高い。そして、アナフィラキシーの症状のひとつに気道狭窄・閉塞がある。

これは、まさか、アナフィラキシーによる気道閉塞!? ……いや、明らかに甲状腺の手術をした首が腫れているし、アナフィラキシーだとしても、気道狭窄以外のその他の症状がない。
原因は本当に甲状腺術後の血腫なのかと逡巡してしまう。
バイタルモニターを見ると、患者の心拍数と血圧が著明に下がっていた。先程からずっと呼吸ができておらず、心臓を動かすために必要な酸素が供給されなくなった結果、心臓の動きが弱くなっているのだろう。

「アドレナリン! 希釈して静注!!」

アドレナリンはアナフィラキシーの治療薬であると同時に、心拍を上げる作用がある。
アドレナリン静脈注射後、心拍は戻ってきたが、気道閉塞は全く改善していない。

心拍が戻ったのもつかの間。モニターの心電図が激しく乱れ始めた。今度は心室細動だ。酸素不足の心臓が拍動を打つのをやめ、細かく震え始めたのだ。とうとう心臓が血液のポンプとして機能しなくなり、脈がなくなる。血圧がモニターに表示されなくなった。
目の前に横たわっている下山さんは先ほどから微動だにしなくなったが、バイタルは刻一刻と患者が死に近づいていることを示している。

「胸骨圧迫! あと、除細動器を持ってきて!!」

心臓マッサージと電気ショックで、身体の外側から心臓を無理矢理にでも動かすしかない。
指示に迅速に対応した看護師が患者の胸に両手を当て、胸骨を押し始めた。
しかし、心臓マッサージで血液を循環させたとしても、その血液に酸素が十分に含まれていなければ、心拍が再開することはない。もはや口からの気管挿管にこだわっている猶予はない。気管切開だ。首から気管を直接切り開き、そこにチューブを突っ込むしかない。
ただ、懸念材料があった。通常、気管は首の皮下すぐのところにあるが、首が腫れあがっている下山さんの気管は皮膚から遠く離れている位置にあるだろう。

看護師からメスを受け取り首の皮膚を切ると、案の定、血が吹き出た。この血だまりの中から気管を探し出さなければならない。しかも、心臓マッサージの振動で揺れている状態のまま行わなければならず、その難易度は高い。また、電気ショックをするときは感電しないように、処置をする手を離さないといけない。
それでもやらなければならない。難しいのは承知の上だが、放っておいたら間違いなく死んでしまう。
右手の鉗子で手術の傷を開きながら、左手のガーゼでわき出る血液を拭き取る。私は血溜まりの中にある気管を必死に探した。

気管切開までかなりの時間がかかったが、やっと肺に酸素を送ることができた。しかし、心臓の動きは戻ってこない。依然として心室細動のままだ。
看護師の心臓マッサージが続く。定期的に電気ショックも行ったが、心室細動は治らない。心室細動でギザギザと乱れていた心電図が完全にフラットになってしまった。電気ショックは電気で心臓を一瞬止めて心室細動を抑える治療であり、電気で心臓を動かす治療ではない。完全に心臓が止まってしまったら、電気ショックでの治療は不可能だ。
看護師たちが交代でひたすらに胸を押し続けるが、完全に止まってしまった心臓が再び動き始めるのは非常に稀だ。

心臓マッサージを開始してから40分。ようやく耳鼻科主治医の柳本先生がやってきた。気管を切開され、血液にまみれた下山さんの首を見て状況を把握したようだ。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」と私に謝ってきた。しかし、こんなときに主治医になんと声をかけたらいいのか、私には分からない。
「来てくれてありがとうございます」と儀礼的にだけ返事をして、これまでの経過を説明した。そして、心拍が再開する見込みがないことも、伝えた。

ほどなくして、患者の家族がやってきた。患者の妻らしき女性が口をおさえ、「おとうさん……!」と小さく打ち震え、心臓マッサージで蘇生処置をしていることに気づいた中年の男性が「おやじぃっ、戻ってこい!」と顔をしわくちゃにして叫ぶ。
柳本先生は家族に経緯を説明するために、傍の部屋へと誘い入れた。

部屋から出てくると、柳本先生は蘇生処置をしている私たちの近くにきて、手のひらを見せ『中止』のジェスチャーをした。私たちは蘇生処置をする手を止め、下山さんに丁寧に布団をかけてから一歩下がった。
そして、柳本先生がゆっくりとした動きで診察を始めた。
まずは、手首に触れ脈がないことを確認。看護師から聴診器を受け取り、心音と呼吸音がないことを確認。最後に、ペンライトの光を目にあてて、瞳孔に対光反射がないことを確認した。

そして、小さく低くはっきりとした口調で宣告する。

「死亡を、確認しました」

柳本先生は静かに頭を下げた。私たちもそれに続き頭を下げる。
下山さんの背景を私は何も知らない。それでも、自分の家族に置き換えて想像をするといたたまれない気持ちになる。何度立ち会っても、慣れることはない。

* * *

状況が落ち着いてから、柳本先生から下山さんの話をうかがった。
下山さんは手術の直前までだいぶタバコを吸っていたそうである。柳本先生はもちろん前々から禁煙を指導していたが、本人は「甲状腺癌で死ぬのは嫌だが、タバコで死ぬなら本望だ!」と気にも留めておらず、家族からも心配されていた。
術前に喫煙をしていると、術後に肺炎などの呼吸器合併症が増える。肺炎までならずとも、痰と咳が増える。甲状腺の手術後に咳をすると、咳の勢いで出血をすることがある。私は腹部の手術をしているが、咳で術後の傷が破れるということはしばしば経験する。頭頸部……特に甲状腺の手術であれば、その危険性がより高いことは想像に難くない。
柳本先生も一度は「禁煙をしないと手術はしない」と手術を断った。しかし、下山さんから「県立部山病院でも断られて、もう先生とこしかないんだ」と嘆願され、しぶしぶ手術を承諾した。麻酔科も手術の麻酔を渋ったそうだが、主治医と患者がいいと言うなら……と麻酔を承諾した。
手術は多少の出血をしたが、ちゃんと止血もでき、特に大きな問題なく終わったそうだ。柳本先生は術後の出血を心配して、夜遅くまで残って見守っていたらしい。多少の咳をしたところで、出血をしないということを確認して、家に帰った。しかし、間が悪く帰ったあとに大出血を起こしたのであった。
家族は下山さんが亡くなったことについて「本人がタバコを吸っていたのがよくないんです」と納得して、葬儀社を呼んだ。ただ、柳本先生だけは「止血できていたはずなのにおかしい」とあまり納得していない様子だった。

* * *

「幽霊って、まさか一昨日亡くなった耳鼻科の下山さん?」

その下山さんが昨日幽霊になったとでもいうのだろうか。
私の質問に田崎は一瞬きょとんとしたが、すぐに否定する。

「中岡先生が幽霊が出たことを信じるなんて意外です。でも、違いますよ。豚です。豚の幽霊が出たそうです。」

ぶた…?

「豚……って、もしや循環器内科の春人先生……の生き霊とか?」

循環器内科の春人先生は別に太っているわけではない。なのに、なぜか内科病棟の看護師たちから「ぶたせんせ」と呼ばれていて、しかも当の本人は喜んでいる。変な人ではあるけれど、気さくに相談にのってくれるいい先生である。
田崎が笑う。

「違いますって。動物の豚です。
そうだ、それで思い出した。春人先生に相談したいことがあるんだった。あ、けど、今は外来でお忙しいかな?」

当院に限らずだが、総合病院の外来は非常に混雑する。完全予約制にして枠を制限すれば混雑することもないのかもしれないが、地域のインフラとして市民に医療を提供しようとすると、いっぱいいっぱいまで患者を受け入れることになる。そして、そこに救急患者の受け入れや病棟患者の緊急対応をするとなると混雑は当たり前である。そうした事情があるからこそ外来診察医はできるだけ患者を待たせないように必死になって業務に取り組むのである。それゆえ、できるだけ外来中の医師には電話をかけないようにするのが暗黙の了解となっている。

「ん、どうした? 私で分かることなら答えるよ」

「HCUの高橋さんなんですけど、術後からヘパリンコントロールを再開しているんです。昨日朝の検査でAPTTが全然延びなかったから、昨日はヘパリンの流量を増やしていたんですけど、今朝のAPTTはめっちゃ延びてたんですわ。まぁ、それで出血が増えていないってことは、内服の抗凝固薬に切り替えても大丈夫ってことなんでしょうけど、どうやって切り替えていこうかなぁ、とちょっと困っていたんです」

ヘパリンは血液の凝固を抑制(抗凝固)するために静脈注射する薬で、血栓症リスクの高い循環器疾患の患者さんの術前・術後によく使われている。APTTはそのヘパリンの効果を判定する検査で、ほどよく延びている状態が理想だ。

普段の生活では内服の抗凝固薬を使用するが、内服薬は効果持続時間が長いため手術直前まで内服をしていたら手術中に出血をしてしまう。そのため、手術前に内服を中止して効果持続時間が短いヘパリンの静注に切り替えるのだ。そして、手術が終わったらヘパリンの静注を再開する。もし再出血をすれば速やかにヘパリンを中止、再出血をしなければ抗凝固薬の内服へ切り替えを行うのが一般的だ。
田崎はヘパリン静注から抗凝固薬内服への切り替えを検討しているようだった。APTTがかなり伸びている状態で抗凝固薬の内服を再開すれば出血のリスクが高くなってしまう。

「そうだなぁ。それだけ延びていたら、ヘパリンは一旦中止して、夕方にAPTTを再検査してから考えたらどう? それまでに、春人先生を捕まえられたら相談してみて」

田崎は私に言われたとおりに、ヘパリンを中止する指示とAPTT検査のオーダーを電子カルテに打ち込む。そして、高橋さんのベッドサイドにいた若い看護師に大きな声で話しかけた。

「篠木さん、高橋さんのヘパリン中止。あと、ごめんね、夕方に凝固の検査をだしてもらっていいかな?」

篠木さんと呼ばれた看護師がこちらに近づいて、「分かりました」と答える。田崎は外科病棟だけでなくHCUの看護師の名前まで覚えているようだ。遠くにいる看護師にも個別に声をかけることができる。仕事を円滑に行うのに大切なことだ。
しかし、私は田崎と違ってあまり多くの顔と名前は覚えられないし、声も大きくはない。声が落ち着いていて安心する、と褒められることもあるが、それは田崎に比べて私の声が小さいからだろう。私も田崎を見習わなければならない。

「あ、篠木さん、眼鏡を変えたの? かわいいね、似合ってるよ」

………いや、彼は仕事のためだけに名前を覚えているわけではなさそうだ。

「ありがとうございます。前の眼鏡は一昨日の夜勤が始まってすぐに、せん妄の患者さんに壊されちゃって……少し大変でした。家に予備の眼鏡はあるんですけど、デザインはいまいちで……。昨日、夜勤明けに新しいのを買っちゃいました」

そういえば、一昨日の急変対応中に見かけた彼女は眼鏡をかけていなかったな。

彼女を見て、ふと記憶の中に違和感を覚えた。
彼女がビデオ喉頭鏡を取りにHCUから駆けだしたあとに鳴った抗生剤のシリンジポンプ。シリンジポンプ………抗生剤は普通、100mLくらいの生理食塩水のバッグに溶解して点滴で投与するのではないだろうか。

「あのさ、篠木さん。話が変わるんだけど、ちょっと聞いていいかな? 耳鼻科の柳本先生って抗生剤はいつもシリンジポンプで投与しているの?」

「そうですよ。『2ポートの点滴より20mLの生理食塩液に溶かした方が安いし、HCUだから別にシリンジポンプを使ってもいいよね』って柳本先生はおっしゃっていました。」

抗生剤は生理食塩液に溶解して投与するのだが、ちゃんと溶解できる液量で1時間程度で投与ができたら、どのように投与をしてもよい。100mLの2ポートの生理食塩液バッグを使えば簡単に溶解できて、点滴バッグをぶら下げておくだけで投与ができる。しかし、柳本先生の言うとおり、この投与方法は少し単価が高い。
HCUは普段から複雑な薬剤投与をするためシリンジポンプを使い慣れている。だから、抗生剤を20mLの生理食塩液に溶かして、シリンジに移して、シリンジポンプで投与する、というやや複雑ながらも安上がりな投与方法を指示してもやってもらえる。
理由としては筋が通っている。しかし、よりにもよって20mLか。まさか………いや、まさかな。

私は、田崎が電子カルテのモニターで開いている高橋さんのカルテをじっと見た。ヘパリン2本の投与を中止する指示が表示されている。私の中でパズルが組み上がっていくのがわかった。
医療に絶対はない。自分の知識や経験と、患者の経過が一致せず、違和感を覚えることもある。ただ、経験豊富な臨床医が「おかしい」と違和感を覚えたときは、だいたいは背景に何かが隠れている。私の推理が正しければ、その違和感の正体が説明できてしまう。
しかし、その正体はあまりに残酷だ。

「中岡先生、どうしたんですか? そんな不安そうな顔をして。もしかして、幽霊が怖いんですか? 大丈夫ですよ、どうせ豚ですし。
それにしても、なんで豚の幽霊なんでしょうね?」

「さあな。豚も自分が毒薬として使われたんじゃ、浮かばれないんじゃないか?」

田崎の頭の上に疑問符が浮かんだ。
人が真剣に考えているときに、お気楽なことを言いやがって。言葉の意味を解説してやるほどの心の余裕は、今の私にはない。

まずは、聞き取り調査。証拠の回収……は無理だろうな。それから、うちの部長と耳鼻科の柳本先生にも報告をしなければなるまい。

これは、おそらく私も含めて病院全体の問題になるだろう。

* * *

田崎と幽霊について話した翌日、私は救急外来に行く用事ができた。
私が過去に手術をした患者さんが、腹痛と嘔気嘔吐を訴えて救急車で搬送されてきたのだ。CT検査の結果を見て、癒着性イレウスと診断し、入院を決定した。
入院の諸手続きを後輩の田崎にお願いすると、私は少し手持ちぶさたになった。救急外来は他に患者はおらず、救急医の野地先生も同じく手持ちぶさたのようだった。
私は野地先生に、3日前の救急対応に不適切なところがなかったかを聞いてみた。

「そりゃ、中岡先生、気切(気管切開)の判断が遅いっすよ。
あと、アドレナリンもダメとは言わないけど、静脈注射はイケてないんじゃないすか。本当にアナフィラキシーを疑っていたんだったら筋肉注射をするべきでしょうし、徐脈に対して使ったっていっても徐脈なのは低酸素が原因なのは明らかなんだから心臓が止まる前に気管切開に踏み切らなくちゃ」

経過を説明すると、野地先生は事もなげにズバッと言い放った。外科医としてはそれなりに腕があると自負はしているが、初めて診る患者さんへの救急対応については経験が乏しい。野地先生の指摘はごもっともである。
救急について専門的な教育を受けたわけでもなく、経験も月に数回の救急当直のみ。救急専門医に比べると、どうしてもこのような対応の遅れが出てしまうことがある。わかってはいても、自分の対応の遅れで患者を死なせてしまうと、自分の未熟さを痛感させられる。

「首の上の方まで血腫が広がっていて、喉頭も腫脹していたんでしょ? 口から挿管するのは俺だって難しい。先生の言う通り、ビデオ喉頭鏡を準備しておけばわずかな隙間が見つかってチューブをねじ込めたかもしれないけど……換気ができていない状況で5階から1階に取りに下りる判断をするくらいなら気管切開一択ですよ」

薄々分かってはいたが、私の責任も大きいな……。流石に自信を喪失してしまう。
あのとき看護師から電話で「呼吸の異常」と聞いてビデオ喉頭鏡を持って行っていたら……。
チューブが挿入できないとわかった時点で気管切開に踏み切っていれば……。
下山さんを救えたかもしれないと思うとやりきれない思いが募る。

「ビデオ喉頭鏡もそれぞれの病棟に1台あればいいんだけどな。すまん、俺も事あるごとに病院に言ってはいたんだ」

私が悲痛な顔をしているのを察してか、野地先生がフォローを入れてくれる。

「いや、そもそも夜も俺ら救急医が居られれば良いのだけれど、うちの大学の医局も救急医が足りなくてな……。各科の先生方には申し訳ないと思っているよ」

「そこまで言うつもりはないですよ。昼に救急を診てくれるだけで助かってますわ」

これは本心だ。田舎では救急医が不在の総合病院なんてざらにある。その場合、日中も各科医師で救急患者の初療を行う。もちろん、ただでさえ忙しい通常業務をしながらである。しかも、救急患者の病気が、初診を行った医師の専門科と異なるときは治療が遅くなることもあり、患者にも不利益が出る。救急医がいてくれる病院は、それだけで恵まれているのだ。

「ところで、あの噂は本当なの?入れ替わってたんだって?」

野地先生はもうそんなことを知っているのか。救急外来は色々な科や病棟から人が訪れるから、情報も早いのだろう。

「……耳が早いですね。ただ、証拠はないですよ」

昨日、聞き取り調査をした時のことを思い出しながら、野地先生に事の顛末を話した。

* * *

昨日、田崎が高橋さんの指示を出し終え、外科病棟へ回診に向かったのを見送ってから、私は篠木さんに声をかけた。ナースステーションには私と篠木さんしかいないとはいえ、目の届く範囲に他の看護師たちもいる。
事が事だけにできるだけ声量を落として話した。

「あのさ、一昨日、夜勤に入っていたよね。その時、耳鼻科の下山さんを担当したのは篠木さんかな?」

「……え、そうですけど」

「その隣のベッドにいた高橋さんも、篠木さんが担当?」

「そ、そうです」

私の質問の意図を考えあぐねているのか、篠木さんはしどろもどろに答える。

「ということは、その日の下山さんと高橋さんの薬をバイアル(薬瓶)から吸って、投与したのも篠木さん?」

「はぁ……」

彼女は私が何かを追求しようとしている空気を察しはじめた。ただ、二人の名前を出してもまだピンときていないということは、彼女が意図的にことを行ったという可能性は薄いだろう。そこは安心ができる。
しかし、確認はせねばなるまい。問い詰めるような真似は性分ではないが、重要なことだ。仕方がない……。

「二人の電子カルテを見たんだけど、確か、下山さんのセファゾリンを投与する時間と高橋さんに投与していたヘパリンを更新する時間って同じくらいだったよね?
私の思い違いだったら、申し訳ないのだけれど、下山さんに高橋さんのヘパリンを間違えて投与した可能性はある?」

「…………」

篠木さんは口元に手をあてた。その手は心なしか震えているようだった。
すぐに否定ができない、ということは少なからず心当たりがあるのだろう。

「責めているわけじゃないんだ。下山さんにヘパリンが間違えて入ったとしたら、下山さんが急に出血したのも説明がつく。そして、高橋さんに投与すべきだったヘパリンが入っていないのだったら、高橋さんのAPTTが延びなかったのも説明がつくよね。……あくまで私の推測だけど」

私の説明を聞いて、彼女の顔がみるみる青ざめていく。
ヘパリンには血液の凝固を阻止する作用がある。ヘパリンが効いている状態で出血をすると、血液が凝固せず出血が止まらなくなってしまう。おそらく下山さんは強い咳で傷が破綻し再出血をしたところでヘパリンが効いてしまい、血が止まらなくなってしまったのだろう。
柳本先生が「止血できていたはずなのにおかしい」と首をかしげていたことが私の中で引っかかっていたが、ヘパリンが誤投与されたのなら説明もつく。

「えぇと、同じ20mLの透明な液体だし、紛らわしいよね。それに……、そうだ、眼鏡が壊れていたんだっけ。それで、薬を見間違えたのかな?」

必死に取り繕うがダメだった。彼女が青ざめたまま静かに泣き始めた。様子がおかしいことに気づいたHCUの看護師たちが遠巻きに私たちを見ていた。

HCUの看護師長が、私と篠木さん、あと彼女のペアである先輩看護師を連れて、傍の個室に入った。そこで、師長を仲介して、3人の話を突き合わせた。
概ね、私の推測どおりだった。
あの日は、せん妄になって暴れていた患者さんを抑えるのに苦労して、時間が押していたそうだ。慌てていた上に、眼鏡を失って視力が落ちていた篠木さんはセファゾリンとヘパリンを取り違えていた可能性があった。また、日勤帯はちゃんと行われているダブルチェックも、夜勤帯は形骸化していたそうである。先輩看護師も「篠木さんが確認しているから大丈夫だと思ってラベルまでちゃんと確認をしていなかった気がする」と証言した。
もちろん、2人とも記憶は曖昧である。そして、証拠となるシリンジはどちらもゴミとして捨てられていて、もう存在しない。下山さんのご遺体も既に火葬されている。
唯一の証拠といえるものは、ヘパリンの代わりにセファゾリンを投与された可能性のある高橋さんのAPTT検査結果だけである。一昨日にヘパリンが投与されず昨日の朝に測定されたAPTTが全然延びず、昨日はちゃんとヘパリンが投与されたため今朝のAPTTは延びすぎたのだろう。ただ、高橋さんに一昨日ヘパリンが投与されなかったかもしれない証拠にはなっても、これをもって下山さんにヘパリンが投与された証拠とするのはいささか乱暴である。
それに、高橋さんにも術後の抗生剤としてセファゾリンが投与されているため、セファゾリンの血中濃度を測っても十分な証拠たりえない。

HCU師長は、現状で分かっていることを総師長へ報告しに行った。
その背中を見送った後、私は耳鼻科外来の受付に電話をかけて、柳本先生の外来が終わったら私に連絡をしてもらうようにお願いをした。

* * *

柳本先生の外来が落ち着いた頃、私は電話を受け取る前に彼の診察室へ赴き、柳本先生に私の推測とHCU師長たちと話したことを伝えた。彼は「なんで……」と、続きの言葉を飲み込み、思い直したかのように軽く首を振ってから、私の方へ顔を向けた。

「……いや、私が悪いな。紛らわしくないように抗生剤は100mLの点滴バッグで処方するべきだった。それだけじゃない。そもそも……そもそも、ヘパリンが入ったくらいで再出血をするような手術をしたことが……。いや、そもそもと言うなら、禁煙ができなければ手術を断るべきだった……のか?」

最後の方はひとりごとのようになる。彼の視線は私の方を向いていない。自らを追い詰めているように見えた。

「柳本先生、あまりご自分を責めないでください」

「いいんだ。教えてくれて、ありがとう。下山さんのご家族には私から伝える。あと、篠木さんにも私から謝っておくよ」

合併症は必ず、一定の確率で起こりうる。私も自分が執刀した手術の合併症で患者を失ったことは一度や二度ではない。そのたびに、自分が行ってきた判断や処置を振り返って、反省をする。たとえ、手術の手技に落ち度がほとんどなくても、手術をすると判断したことを反省し、落ち込む。
それが、明らかな人為的な過誤が原因だと分かったときの落胆は、察するにあまりある。
柳本先生は電子カルテをおもむろに操作しはじめた。
私は「失礼します」と一言だけ添えて、診察室を後にした。彼からの返事はなかった。

* * *

「……で、豚の幽霊はどうして出てきたんだい? あれから話に出てこなくなったから気になって気になって」

私から一通りの話を聞いた野地先生が笑いながら私に聞いてきた。話の流れでつい言ってしまっていたのか。我ながら田崎にも野地先生にも無駄なことを話してしまったものだ。

「いや、ヘパリンは豚の腸管粘膜から原料を採取して作るでしょう? だから、ヘパリンが毒薬のように使われた濡れ衣を着せられたままでは屠殺された豚も浮かばれない……というだけのただの皮肉ですよ。あの時は推測するためにいろいろと思考を張り巡らせていたから、ついそんな考えが出てきてしまっただけです」

「へー」と彼はにやにやする。
「幽霊がもう出なくなったのなら、その考えもあながち間違いじゃないんじゃない?」

「気のせいでしょう。幽霊なんて看護師の見間違いでしょう、きっと」

私は野地先生のにやにや顔を言葉で一蹴した。

「ま、幽霊が本物にしろ偽物にしろ、幽霊話がきっかけで事故の原因が分かったんなら、それで良かったんじゃないの?」

にやにや顔をくずさず、あっけらかんと言い放つ。
そういう単純な話ではない。「良かった」と言われても、私の中では「本当に良かったのだろうか?」という思いが渦巻いている。

「それはそうなんですけどね。
ただ…、『原因を見つけてしまった』という思いもなくはないんですよ」

私が思いを吐露すると、「ほぅ、それで」と私の次の言葉をうながしながら、野地先生は表情を少し引き締めた。

「確かに、確かにですよ。原因が分かったことで患者家族に説明することもできましたし、これから再発を防ぐための対策が立てることもできるでしょう。
けど、下山さんのご家族も『患者本人が術前に意地を張っていたせい』と納得しかけていたのに『病院の責任もあるかもしれない』という情報が入ってきたら、心中穏やかではいられないでしょう? 病院の責任にしたところで、故人が帰ってくるわけではないですし。
あと、HCU看護師の篠木さんや耳鼻科の柳本先生の落ち込みぶりを見ると…、嫌な真実を突きつけてしまったなと、思わなくもないのですよ」

正直に言うと、この真実は握りつぶしてしまいたかった。それでも、報告をしたのは、臨床医の性だろう。
もちろん状況にもよるだろうが、たとえお互いに不都合なことであっても、患者やその家族には真実を伝えなければならない。そして、失敗は必ず振り返り、次の患者さんに還元をしていかなくてはならない。
報告したことが臨床医として間違っているとは思わないが、自分のしたことで苦しむ人たちを見るとこれで良かったのかと考えてしまう。

私のアンビバレンスな感情を察してか、野地先生は「そうか……」と小さく答えた後は黙ってしまった。
私達二人の間に少し静かな時間が流れたが、それはすぐに中断される。野地先生の2台あるPHSのうち片方が鳴り響いた。「はい、中央病院の野地です」と彼はすぐに応える。電話先と話す内容から推測すると、PHSは救急車とのホットラインだろう。

「……分かりました。お待ちしてます」

野地先生がホットラインで話しているのに気づいた救急外来の看護師たちがこちらを見ている。やってくる救急患者の情報を気にしているのだろう。

「話を聞いてくれて、ありがとうございます」

私は手短に礼を述べて、席を立った。

「ああ、またな。話くらいならいつでも聞くからな」

私は一礼をして、救急外来を後にした。
今日の午後には、緊急で当院の医療安全委員会の会合が開かれる。今回の医療事故について院長や各責任者たちと話し合うのだ。患者さんにとって不幸なことが二度と起こらないように、解決策も検討されるだろう。
私も状況説明をするために、会合に呼ばれている。それまでにできるだけ仕事を終わらせておこう。

臨床医として目の前の患者、それとこれから出会うだろう患者に自分のベストを尽くしていく。私にできることはただそれだけだ。

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