恵方巻きに関する覚え書き

毎年節分になると恵方巻きについて同じ事をTwitterでつぶやいてしまうので、簡単にまとめておきます。

恵方巻きについての従来の研究は、全国的な行事として定着する過程を明らかにすることが目的で、由来についてはそれほど詳しく調べられていないようです。遊郭で始まったとされていますが、その根拠は昭和7年の大阪鮓商組合のチラシにある「この流行は古くから花柳界にもてはやされてゐました」という文言で、どこの「遊郭」かさえ明らかになっていませんし、実際にそういう遊びをしたという聞き取り調査もなく、丸かぶりをしている文章や絵も示されていないのです。

ところが、ネット上ではこの「花柳界」を風俗街だと解釈し、節分の丸かぶりは口淫にルーツがあると言う人が絶えません。この説が広まった原因のひとつが、2010年の平民金子氏のtweetだと思われます。平民金子氏本人はその後これを冗談だとするtweetを数回投稿していますが、信じてしまった人も多いでしょう。

   このtweet、本人が作り話だと言っています。

またネット上では、大阪鮓業組合のチラシに節分の丸かぶりが「花柳界にもてはやされている」と書かれていることが、まるで後ろ暗いことのように取り上げられていますが、いうまでもなく花柳界というものに対する理解が不十分なための思い違いです。「花柳界にもてはやされている」といって商品を勧めるのは「舞妓さんのお気に入り」「セレブの間で人気」などというようなものです。

下記リンクも花柳界について誤解をしている1つで、加えて昭和15年には花柳界の部分が不都合なので削除されたとありますが、これは配給が始まり「ぜいたくは敵だ」という言葉が流行った昭和15年(皇紀2600年!)という時代に合わないから削除されたと考えるのが自然でしょう。

私が毎年恵方巻きの話題に反応してしまうのは、恵方巻きの批判の中に大阪に対する蔑視、差別を感じることが多いからです。大阪発祥の作られた伝統が全国に広まるのが許せない、大阪発祥の文化は下品なものに違いない、と遠回しに言われているように感じるのです。

仮に恵方巻きのルーツが言われているようなものだとしても、それがきちんと実証的に解明されれば私は納得します。日本各地に伝わる風習や祭りには、子孫繁栄を願った性的な要素のあるものがたくさんあり、なんら恥じるところはありません。私はただ、大阪に対する先入観から歪んだ解釈が広まっていくのを嘆かわしいことだと思うのです。

ほんとうは全国的な行事になる前の、恵方巻きの歴史について調べて論文の一本でも書きたいところですが、しばらくそういう時間がとれません。ぜひどなたかに研究していただきたいです。以下はそのためのメモです。

【恵方巻きのルーツの研究のためにすること】

大阪鮓商組合のチラシにある「この流行は古くから花柳界にもてはやされてゐました」という文言は単なる宣伝文句に過ぎない可能性があると思っていますが、以下のことは調べる必要があるでしょう。

1.当時の遊郭の節分の行事について調べる。
2.大阪鮓商組合の記録を調べる。

太巻きを作るのには必ず海苔が必要です。大阪海苔協同組合は節分に巻き寿司の丸かぶりのイベントを1977年から行っています。

『海苔の歴史』という本があり、恵方と巻き寿司について書かれていそうです。
丸かぶりという食べ方を大阪海苔協同組合のイベントが広めたのか、もともと丸かぶりをしていたのでイベントにしたのかをはっきりさせたいところです。

3.大阪海苔協同組合の節分商戦について調べる。

大阪では節分に我孫子観音にお参りすることが盛んです。筆者の母親(昭和一桁生まれ)や叔母たちは我孫子観音の帰りに近隣で売っている太巻きを買っていました。我孫子観音の周辺の出店にはあらゆるものが「厄除け」の意味を付けて売られていました。太巻きもそういうものの1つだったのではと思います。

4.我孫子観音の周辺の寿司屋に聞き取り調査をする。

さて大阪には恵方巻き以外に、一方向を向いて黙って食べるものがあります。庚申堂の蒟蒻です。北を向いて無言で食べるというものですが、この習慣があったからこそ恵方を向いて無言で食べるという食べ方が受け入れられたのではないでしょうか。

5.庚申堂の蒟蒻について調べる。

確認すべき事。
Twitterで教えていただいのですが、落語「遊山船」に口が小さい舞子に太巻きを食べさせて「オモロイ顔」になるのを楽しむ場面があります。時期は天神祭で節分ではなく、決まった方角を向くとか無言で食べるとかいう条件はありません。

中島らものエッセイのネタにもあるらしいですね。中島らものファンなのに思い出せなかった……https://twitter.com/Arabiq_owner/status/1621364370730254336?s=20&t=PYBVwakBEMH-VrFVhw7qvw

【個人的な経験】
恵方巻きのルーツについて書いたものによく「船場の遊郭で…」とありますが、どこなのかはっきり書いているものは見たことがありません。「遊郭」と呼べるのは新町、堀江、北新地、南地だと思いますが、「船場の」というと、どれになるのかわかりません。もしかすると「船場の遊郭」と書いている人がわかっていないのかも……(すみません、ご存じでしたら、どこなのか明記してください。)

さて、私の祖父は明治生まれですが、仕事の関係で船場に出入りし、船場から祖母を迎えました。船場の仕事仲間と遊郭に行くこともあった、というか、自宅にまで芸者を呼んで遊ぶような人だったので、かなり遊んだ方だったと思われます。祖父は地元(大阪市内)でも大阪のお座敷遊びをしてみようということで、節分のオバケをした写真が残っています。

その写真は地元のミニコミ誌に掲載され、大正生まれの伯父が説明してくれましたが、オバケという仮装が中心で、太巻きの丸かぶりについての話はありませんでした。もし当時、恵方巻きの風習があったのなら格好の題材ですから、写真に収めているのではないでしょうか。

この祖父に反発したのか、私の父は極めて粗暴な男に育ち、お座敷遊びどころか芸能関係のすべてを忌み嫌っていました。音楽関係の習い事はできなかったし、盆踊りにも行かせてもらえなかったくらいです。
もし恵方巻きが遊郭発祥なら、祖父が遊んでいるのを見てきた父が知らないはずはないし、私たちには絶対に食べさせなかったはずです。恵方巻き食べたいなどと言ったりすると確実にどつかれていたでしょう。
しかしそのようなことはなく、私たち家族は揃って恵方巻きを楽しんだのです。父が得意先の人たちと「海苔問屋も儲けさせたらなあかんな」と話していたのを覚えています。

その他いろいろ。

恵方巻きという言葉はなく、単に太巻きと呼んでいた。太巻き自体は節分限定の食べ物ではない。

母親が我孫子観音に行かない年は節分の食事としてふつうに鰯の焼いたのを食べた。質素な食卓になるので不評だった。

80年代に、地元のお寺も平安時代創建の値打ちのあるお寺だからそこで節分のお参りをしようということになり、我孫子観音に行かなくなった。商店街で太巻きを売っていたので買っていた。

ありがとうございます。