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『サクラノ刻』感想

枕の『サクラノ刻』をプレイした。2023年はいまのところ面白いエロゲーが出ていないな、という話をしていた折に2月にこの作品が出ていたことを思い出し、さすがに批評空間で中央値92点を叩き出しているゲームをやらずして2023年を終えることは出来ないだろうとプレイを決意した。前作にあたる『サクラノ詩』は8年前のゲームであり記憶が曖昧すぎたため、『刻』をやるにあたってわざわざプレイし直した。結果的にこれは間違いで『詩』の記憶が曖昧なままプレイしたほうが楽しめたんじゃないかと思ったが、これについては後に説明する。結論から述べると『詩』『刻』合わせてクリアにおそらく3~40時間はかけたがそのことを後悔しつつあるレベルで楽しめなかった。

以下は完全なネタバレとなるため、クリア済もしくは『サクラノ』シリーズを今後一切プレイする予定がなく俺が怒っているところを見たい人のみ読んでほしい。






夏目圭というキャラクター

『サクラノ刻』という作品はその一番表層の部分において「草薙直哉が夏目圭の死を乗り越える物語」であると言える。このため全編において故人である夏目圭の存在感は凄まじく、新美術部の一部以外の主要登場人物はほぼ全員が夏目圭の亡霊に取り憑かれていると言っても過言ではない。『刻』単体で見ればこれ自体はそこまで問題とは言えないが、『詩』を踏まえると途端にこの夏目圭というキャラクターの扱いに対する疑問が浮かび上がってくる。
前作『サクラノ詩』における夏目圭の描写は相当に雑で、4章まではほとんど立ち絵と声がついているだけの賑やかしで、ストーリーに絡んでくることもほとんどない。しかし美術部ヒロインのフラグをことごとく追って辿り着く5章では唐突にこの圭が主人公のライバルヅラをしはじめ、焚き付けるだけ焚き付けておいて突然死ぬ。友人の死とあっては登場人物たちにとって大きな事件であり、芸術家として復活の兆しを見せた直哉はこの死をきっかけに完全に断筆し、美術部の面々も散り散りとなりそれぞれの道を歩み始めたところで『詩』は幕を閉じる。プロット的には大きなターニングポイントである圭の死だが、読者からすれば『詩』における圭は描写不足もいいところで、とてもではないが感情移入できるような存在ではない。この時点で圭への思い入れという点ですでにかなり登場人物たちと読者の間で温度差が生じている。
いったん『詩』のメインキャストたちを引き離し、次回作の舞台を整えるためのギミックとして圭を死なせること自体には特に文句もなく、加えてそれが目的なら別に読者が圭に大した思い入れがなくても良い。しかし『刻』のストーリーは結局新キャラではなく「草薙直哉と夏目圭」の物語に終始してしまった。『刻」のスタート時点で存在する圭に対する温度差は、作品を読み進めるにあたって違和感としてずっと読者に付きまとうことになる。
この点についてはライターのすかぢも自覚的であったのか、『刻』ではまるで『詩』の埋め合わせをするかのように圭に対して鬼のような掘り下げと後付の設定盛りが行われている。そもそも麗華の娘である心鈴と真琴というサブヒロインのチョイスは、鳥谷―中村ラインで圭の過去描写をするために都合が良かったからじゃないのかと邪推してしまうし、4章にいたっては丸々全部圭視点での過去編となる。必要性は理解できるのだが、ここまで露骨にやられるとまるで『詩』の失敗を必死に取り繕っているように感じ、かなり白けた。とにかく作中で圭に対する掘り下げが行われるたびにライターのすかぢから言い訳を並べ立てられているような気分になり、著しく体験の質が落ちた。とはいえやはり『刻』の物語を成立させるために必要な描写ではあるため、単純に構成の問題と言える。

すかぢ、バイブスで書いてない?

そもそも『詩』と『刻』は二部作としてプロットの構成が問題だらけに思える。まず圭の過去や天才性の本質、健一郎や心鈴との関係などに関してはどう考えても『詩』時点である程度描写し伏線を張るべきでは?あんな唐突に殺したあとに後から掘り下げて物語のキーパーソンに仕立て上げるのは無理がある。麗華と静流のエピソードも、『刻』の一章に配置するのは不自然であり、むしろ前作に組み込んであった方が碧緋の伏線にもなっただろう。『詩』では最終章で怒涛の勢いで新キャラや成長後キャラを出しており(ここも正直匂わせに留めておいて一部『刻』のプロローグなどに回せたんじゃないかと思う)、明らかに最初から二部構成は予定していたようだが、全体像が自分でも見えていないまま行き当たりばったりで書いているようなな印象をどうしても受ける。『詩』の執筆時点では『サクラノ』シリーズ全体のプロットはほとんど何も考えていなかったとしか思えない。
ちなみに新美術部、特に桜子と奈津子は全く存在する意味がない(比喩でもなんでもなく、完全に消し去っても物語に一切不都合がない)のだが、これはさすがにもともとは新美術部関連のルートもあるはずだったのがゲームを完成させるために泣く泣くカットして本筋に注力したみたいな話をどこかで聞いたような気がする。カットした上で完成に8年かかっていることはいったん置いておいて、これに関しては「やりたかったけど出来なかった」ということでまあ仕方なしという見方は出来る。しかしこの途中放棄され宙に浮いたままのキャラクターたちといい、前述の構成の杜撰さといい、『サクラノ刻』という作品が抱える歪みのほとんどはすかぢというライターの筆の遅さ(とゲーム開発におけるシンプルな実現力の低さ)と、しっかりプロットから物語の構成を組み立てる作劇能力の低さに起因しているのではないかと思えてならない。

5章からはさすがに別人が書いてない?

『サクラノ刻』を高く評価している人からも微妙な意見が多い5章の展開についてはもはやいまさら自分がどうこう言う必要もないかもしれないが、それにしてもかなり酷い。とってつけたようなエンタメ振りの展開(全員集合絵画バトル、カーチェイス)に素直にノレる人は皮肉なしでどんなコンテンツも楽しむ才能があると思うが、4章の圭過去編ですでにテンションが氷点下だった自分には相当苦しく、読み進めるのにかなり時間がかかった。特に明石の盗撮ドキュメンタリーは無理があるとかいうレベル越えてるだろ。
この章で何より問題なのはシリーズを通して繰り返し提示されてきたテーマが基本的に蔑ろにされているところ。最後の稟との勝負で直哉が提示する作品は伯奇と千年桜の力を用いて描いたものだが、これは明らかに1回限りかつ小手先のパフォーマンスでしかなく、ここに至るまで作中の芸術論でさんざ否定してきたものではないのか?と思わざるをえない。作品が出来上がるまでの経緯も、まずそもそも直哉が芸術に再び向き合い始めたのは贋作がバレたら犯罪者になるぞとフリッドマンに脅されたからという身も蓋もないものであり、それで突然スイッチが入ったかのように芸術家モードに切り替わるのはさすがに卑俗すぎて笑えてしまう。恩田寧の一件で「教師よりも芸術家としての選択をした」というリードこそあるものの、それが真の芸術家の姿か?とは思わされる。
『詩』で一番のお気に入りキャラであった長山加奈の見せ場があったのは良かったが、vs直哉で神懸かりを発揮して満足そうにしているのは違和感があった。凡人ながらも芸術に真摯に向き合っていて、泥臭い立ち回りの奥に秘められた高潔な精神のギャップが魅力のキャラだった思うのだが……。パワードスーツの設定も無理矢理に代償を背負わせている感がすごかった。
同じように最後の絵画を制作中の直哉もこれまたオカルト的な作用で身体に負担がかかり血まみれになったり意識を失ったりするし、会場に遅刻しそうになって突然カーチェイスが始まるのも、完全にライターの都合で無理矢理クライマックスを演出している感があり、とてもではないが素直に盛り上がれる展開ではなかった。結局読者の預かり知らぬところで燃えただけの巨大絵画の扱いにも疑問が残る。

評価点

一応楽しめた部分も触れておくと、3章の恩田放哉、寧、そして心鈴絡みの話は良かった。静流と麗華、碧緋や陶芸の話もいまさらやることか?とは思いつつも面白かったと言える。どちらも圭要素が薄く、しっかりと今作のキャラクターの物語をやっているところも好印象だった。
すかぢ作品特有の哲学語りも嫌いではない。本筋のストーリーにしか興味がない人はどちらも同じようなものとして流し読みしがちだが、「美術・文学ウンチク語りパート」と「すかぢ哲学パート」は明確に区別されるべきで、前者はただの知識の羅列だが後者は明らかに(キャラクターを介した)ライターの思想の発露である。
美術ウンチクに関してはまあ知らないこともあれば知っていたこともありという感じではあるのだが、明らかに知識というかすかぢの興味の偏りは感じる内容で、作中を通して何度も何度も同じ作家や芸術家が引用・言及されるのは気になった。特に画家に関してはびっくりするくらい19世紀の画家しか言及されない。ゴッホとゴーギャンの話何回するんだよ。
哲学パートではすかぢ哲学が存分に語られておりそれなりに面白く読ませてもらった。さすがに長ったらしく感じるパートもあったが、繰り返し出てくる「弱き神」の概念や形而上的な美の捉え方に関する議論などは結構良かった。『詩』ラストの直哉と稟の会話パートといい、すかぢは自らの哲学思想を並べるにあたってそれこそプラトンのような対話篇をやりたいんだろうということは伝わってきた。
作者が作品、というよりキャラクターに自らの思想を代弁させる行為は個人的には作者の権利のひとつでもあると感じていて、どの作家でもある程度は無意識的に行っているとも思っている。なので自分は特に気にしないが、あまりにも露骨にキャラクターの背後に作者が透けて見えると興醒めするという人の気持ちも分からないでもないので、やるにしても目立たないようにするに越したことはないと思われる。

まとめ

『サクラノ刻』は決してクオリティが低いというわけではなくこれより酷いエロゲーなんてそれこそ掃いて捨てるほどあるが、期待値は大幅に下回ってきたゲームだった。特に圭の扱いに対する違和感が終始つきまとっていたのがかなり読書体験の妨げになっていたように思える。『サクラノ詩』を直前にやったせいで余計に圭に対する温度差を引きずったまま『刻』に突入してしまったので、『詩』はラストに関する曖昧な記憶のまま『刻』をプレイした人のほうが楽しめたんじゃないかとすら思う。
『素晴らしき日々』は文句なしでめちゃくちゃ面白かったゲームなのだが、『サクラノ詩』の時点でその期待を下回られた記憶があり、今回の『サクラノ刻』ではさらにそのハードルの下をくぐってきたので(出るのかも分からない)『サクラノ響』に対する期待度は過去最低値となった。出たら出たで結局プレイ自体はしそうなのが悲しいところ。『素晴らしき日々』もHD版が出ていてそのうちやり直そうと思っていたのだが、今の自分のすかぢに対する印象を引きずったまま再プレイすると思い出にヒビが入りそうなのでやめておくべきかもしれない。とりあえず次回作出すにしても真っ当なスケジュールを組んで延期なく出せるよう頑張ってほしい。

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