昔ばなし

今日は徒然なるままにこれを書いています。長文になるかと思いますが、この昔話に付き合ってくれる人だけ読んでください。

これは、私の中学時代の話です。私が通っていた学校は、白地に青い襟元のシャツに白黒で千鳥格子のズボン、紺のブレザーが制服として定められていました。むろんこの制服は着用が校則で定められており、それ以外にも靴下は白を基調としたものであること、髪は地毛でツーブロックはダメといったような校則が定められていました。

また、私のいた学校は例年「荒れている」と地域でも有名であったのですが、我々の学年だけは生徒の大きな問題行動は見られず、「君たちから○○中学は変わっていくんだ」と言われていました。(なお、現在は再び荒れた学校に戻っているらしく、授業を抜け出してコンビニに行くような生徒がいるということも日常茶飯事のようです。)

さて、私の話に移ります。私は着用義務のあるシャツを第1ボタンまで締め、「周りよりも真面目である」ことを維持できるよう心がけていました。というのは、私が周囲の環境と深く関わりたくなかったため、自ら校則を厳しく守ることで自分を律しようとしていたという訳です。それに加え、周囲とレベルの低いことで同調したくないという思いから、下ネタを知っていながらも知らないというスタンスを3年間貫いていました。

しかしこれがむしろ悪影響だったようで、やんちゃなグループからいじられるというのが中1の頃の日常となっていました。ある日の話をすると、教室へ通じる唯一の階段の踊り場を封鎖され、「オ○ニーって言ったら通したるわ」と言われました。当時、自らのスタンスを貫くため、「どういう意味?」と言うなどして抵抗していましたが、どうしても通してくれない様子だったので仕方なく小声でその言葉を呟きました。彼らは満足したかのように大爆笑して、「顔が下ネタなのにそんなことも知らんねんな」という意味不明な捨て言葉を浴びせられ、その場を去っていきました。

私は周囲の環境と大きく関わりたくなかったため、友達はほぼ部活動にしかいませんでした。そこでの友達は、今でも親友と呼べるほどの仲なのです。しかし、それ以外の同級生には会いたいという気持ちが全く湧かなかったので、私は同窓会に行くこともやめました。

中学時代の先生方の大半は、勉強面や生活面で大きくお世話になり、むしろ、私は同級生よりも先生と話している方が楽な中学生でした。同窓会には先生方も来ることを聞かされていたのですが、同級生のメンツが自分にとって会うのが苦痛と思う人ばかりだったので、そちらが勝ち、結局行かなかったという訳です。ちなみに同窓会が行われた日には、先程の親友たちと少人数で飲み食いをして騒いでいました。

私が所属していた部活動は、中長距離走を専門とした陸上部のようなものでした。もともと、小学校を卒業してぽっちゃり気味だった私は、健康増進のためにジョギングでもしよう、という安易な考えでそこに所属しました。真面目を貫いていた私は、中1,2の間、テスト明け以外は毎日必ず部活動に参加し、走る能力も着実についていました。しかし中3になり、新たに赴任してきた新顧問が、その部活動の方針を大きく改めたのです。具体的には、中長距離だけでなく短距離も含め、より厳しい練習メニューが展開されていきました。私はその練習に限界を感じ、中3の夏に受験勉強をしたいという理由で部活動を辞めました。本当は、夏の段階では進学先はほぼ確定していたわけなのですが。

私は委員会活動も真面目に取り組んでいました。中学1,2年生の間は、文化委員会という委員会に4期(各学年前後期)所属しており、中2後期には副委員長になっていました。文化委員会の活動は、学校の文化的活動を豊かにするという目的で、文化祭の運営やベルマーク運動による学校設備の充実などが主な活動でした。

そのような活動に真摯に取り組んでいた私は、生徒会の委員長選挙に立候補し、応援演説者に前委員長を立てたのです。このとき、文化祭を運営したいという思いだけで、今まで一度も文化委員になったことのない生徒が立候補しました。その子は応援演説者に友人を立て、私と二人で文化委員長の座を争ったのです。

生徒会選挙の蓋を開けてみると、委員長になったのは私ではなく、その文化祭を運営したいという思いだけで立候補した生徒でした。私は愕然としました。真摯に取り組んでいたことが何も評価されない。この学校は私にとって損が過ぎると。

私は真面目に取り組んでいた部活動や委員会での頑張りが認められず、残されたのは勉強だけでした。定期テストではコンスタントに90点以上の点数を取っており、成績評定も45分の44という好成績を修めました。周囲に対して、将来的に見返してやるぞというのが私を内発的に動機づけ、そのような勉強のやる気を起こさせてくれたのだと思います。

そして私が入学した高校では、自由や多様性を認めてくれるとても寛容な学校でした。この高校は、中学までの「何かに縛られて真面目にい続けないといけない」という私から、もう少し自由にやってもいいんだ、という思考の変容を促してくれました。このときの自己変容は、今の自分にとってとても大事なターニングポイントだと捉えています。

私は思春期の多感な時期に、「何かに縛られながら自分を律し、それでも周りから認められない」という自分から、「何かに囚われることなく、周りから認めてもらえる」自分になっていました。

オチは特にないですが、これ以上何かを書こうと思わないのでここで筆を止めることにします。お付き合い頂いた方、ありがとうございました。

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