雑感◆西部邁さんの死(その2)

西部さんの死を知ってから、遅ればせながら彼の近著を二冊ほど買って読んだ。といっても私の関心事が彼の死をめぐるあれやこれやだったので、時として難解かつ深遠に感じられる保守思想はとりあえず脇に置き(西部さんが語る凛然とした右翼思想には漠然と好意を抱いてはいるが)、おもに数年前に看取ったという彼の奥さんや北海道のご家族、彼の人生に少なからぬインパクトを与えた知人たちの死をめぐるエピソードをさがしてはページをめくった。私が知りたかったのは、西部さんがどういう心境から自死(彼自身はそれを「自裁死」と呼んだ)へ赴いたのかという一点だ。

妻の死がもたらした喪失感、老年期の体をさいなむ不調の数々、そしてそれに伴って精神を穿っていく虚無感――もちろん、そういう見方で彼の死を解釈することはできるだろうし、彼が時として凡人の理解を超える思弁と経験とに基づいて活写した、近しい人々の生と死と、それらが彼の心身に及ぼした影響を憶測することはできると思う。けれどもそれは、所詮は私のような単なる一凡人の解釈にすぎない。悲しいことに、私たちは自分の持てる知識や経験や洞察を超えるものに遭遇したとき、その貧相な理解力や直観力のみに頼って、実像よりもはるかに小さな解釈に終始してしまう。だから西部さんのにわか信者の私が彼の近著を斜め読みした現時点では、彼が妻を失った老人の悲哀をまとって可哀そうな死を選んだ、と万が一にも解釈することができたにしても、正直それが事の真相だとは少しも思えないと言うしかない。

いずれにしても、にわかに思い立って決行した死ではなかったことが私には驚きだったし、長い年月をかけて醸成された死には、馥郁とした芳香のようなものが感じられる、と言ったら不謹慎だろうか。西部さんは霊魂の存在を否定しているので、御霊よ安らかに、とは言わないけれども、父方のご実家が北海道のお寺だそうなので、締めくくりの言葉はやはりこれしか思いつかない。

合掌。

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