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「幽囚の心得」第12章               規範の存立根拠                          ~合理の裏付けと慣習的価値~(3)

 また、ある時こんなことがあった。私の手許に届いた手紙の封筒の表面に「同封物連絡票 下記物品が同封されていました。 同封物 84円切手30枚」との付箋が貼付されていた。しかし、その後3週間が過ぎても私の手許のこの切手は届かず何の告知もない。訝しく思った私は配役されている工場の担当の刑務官に事態を告げて状況確認をしてもらったのであるが、その回答には非常に驚かされた。

   即ち、それは以前と異なり、外部からの差入れにおいても1度に差し入れできる物品の限度数については、受刑者が施設で自身で購入する場合と同数までと運用が変更になっており、切手もこれの例外にはなっていない。一度に購入できる切手の枚数は10枚までとされており、外部からの差入れにおいてもこれと同様に10枚までしか入らない。
 10枚を超えた場合は10枚の限りでは入るという運用ではなく、その全てが届いたことにならないという扱いになる。従って、いずれ廃棄するか、宅下げするかという連絡が来てそれを問われることになるだろうというものであった。

 確かに、日用品一般について、外部からの物品の差入れ可能限度数につき、受刑者自身が所内で購入する場合と同数までとするとの運用変更の告知はなされていた。しかし、同時に日用品の差入れ対象たる物品は所内の売店で購入できる商品そのものに限るとも告知され(例えば、パンツを外部から差入れしようと思ったら施設外で購入したものを自由に入れられるのではなく、売店で買った物でないと駄目だという趣旨である)、且つ、切手はその例外とするとも知らされていた。つまり、説明内容が極めて曖昧、不明確であって、私はこれを切手の扱いは日用品一般とは別なのだなとの理解にあったのである。

 事例の説明が長くなったが、この事例で私には生じた違和感は切手を他の日用品と同列に扱い、しかもその独自のルールに反した場合にはこれを放置し、当事者に何らの状況説明も施そうとしないその極めて人権感覚に疎い杜撰な感覚とその姿勢である。つまり切手が何に使用されるものかというその重要性に全く思いが至っていないのである。言うまでもなく、切手は通信による表現行為に必然として伴い用いられるものである。
 受刑者等の信書の発受等については刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(127条等)において、検閲(検査)その他の制限を定めていることは事実である。つまりそれは検閲禁止の例外として位置付けられる。それは正しい。しかし、それは憲法上保障されている通信による表現の自由と通信の秘密の保障の趣旨に鑑み、その制限が拘禁目的の達成のために必要最低限のものでなければならないと解されるべきなのである。通信を為す自由の憲法上の重要な意義を知れば、他の一般の日用品と切手を同列に扱うことの違和感に気付かぬはずはなく、しかも送付されてきた切手を当事者にその旨報知せず放おっておくなどという乱暴を働くはずがない。その無神経で粗雑な振舞いは刑務官の人権保障に関する基本的リテラシーが決定的に欠如していることを示すものと言わざるを得ないのである。これは、基本的人権、しかも精神的自由権の制限に関わる問題なのである。曖昧、不明確な規制が許されるはずがない。まして、受刑者の矯正という点からも社会との繋がりを保持することが重要であることは彼ら自身が認識しているところだろう。

 社会にはルールがある、君たちはそのルールを破った故にここにいるのだ、それ故、刑事収容施設ではルールを守るということの訓練をするのだ。とこう一見するともっともな言に聞こえはするが、私から言わせれるとそれは全く粗野な話という他ない。

 そのような言は「形式的法治主義」と「法の支配(実質的法治主義)」の概念の違いと意味合いについての理解の乏しさを如実に表している。
 「形式的法治主義」は法によって権力を制限するという観念は稀薄であり、そこで言われる「法」とはその内容を問わない形式的な法律、規定に過ぎない。そのような意味の法治主義の概念は民主的な意義と結びついたものではなく、それは専ら権力作用が行われる形式、手続を示すものに止まる。極論を言うならば、この場合の法の中身は何でもよいということになる。「形式的法治主義」による統治は戦前のドイツにおいてナチズムによる暴政を生んだ。戦後のドイツはその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求する「実質的法治主義」による統治制度に移行している。
 「実質的法治主義」は英米法における「法の支配」の原理とほぼ同意義と言ってよい。法の支配に言う「法」とは、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む概念であり、民主主義及び人権保障の観念とも強く結びついたものである。現代社会と国家における法治主義の概念は実質的な意味としてのそれであることは疑う余地がないのだ。

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