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ネコ短歌コンテスト入賞作にみる短歌絵についての考察”その文章のためだけに描いた絵”がイラストレーション

「イラストレーションで一番の快感は、文と絵の凹と凸がスパッとはまりテトリスみたいにすっとゼロになったとき。寸分違わず文にはまる絵は、説明的でも暗喩的でもないちょうどよい手数と間合で成り立っていて、相方はその文でないと大した絵でもないというそんな時」

ふと思いつきで書いた一節なのですが、上記のようにイラストレーションの基本的な考え方は、端的に言うと ”その文章のためだけに描いた絵”
ということです。技術やアイデアは大切ですがそれ以上に文章との「間合い」が大切です。短歌を例に挙げると、歌人枡野浩一氏プロデュース企画”ネコ短歌コンテスト”入賞作品四首から

【短歌】

本物の猫に触ったことがある おばあちゃんちで飼っていたから

(志井一) さんの短歌

この短歌に描く場合、難しいのは文章を額面通りに受け取った場合、「おばあちゃんち以外にも猫はそこら中にいるのに、どうして”おばあちゃんちで飼っていたから”なのだろう?」ということです。ぼくの場合はこういう部分を解決しないまま描くことを選びました。解決しようとして自分なりの解釈をすると、この短歌の良さでもある読み手の「なぜ?」を限定してしまう可能性があるからです。額面通りに読み取ると、この短歌の世界観は、「身近には猫になかなかお目にかかれない世界」ということになります。それは非現実の世界ですが、そのまま描いてしまうと、この短歌を「非現実の世界」と限定することになります。しかし作者の意図はもう少し複雑で、暗喩、比喩などの短歌の言葉通りに受け取らないイメージを持って制作されている場合もあるため、”解決しなくてもいい描き方”をしてみました。その答えが猫のおしりです。おばあちゃんちにいそうな猫のおしり。大概老人の飼い猫は家猫で沢山食べて運動はほどほどだからのんびりしていてふっくらです。そして少しふてぶてしいような。

次に

【短歌】

一度だけ猫と話が出来るなら 俺で良いのか聞かせて欲しい 

(すごろくがおわらない)さんの短歌

「もしも(ずっと飼って来た)猫の本音を聞けたなら、俺(の飼い猫)でいいのか聞いてみたい」というこれは切なくなるお話しです。この短歌の場合は、この短歌が猫を飼う前か、飼ってからなのかという部分は分からないところなのですが、ほぼ額面通り受け取っていい短歌です。あとはこの短歌の中にある情緒を広げていき、この短歌の問いかけに対してどのような猫の反応があるのか(あるいはないのか)などの想像を膨らませます。ぼくはこのお話がハッピーエンドでもバッドエンドでもいいし、読み手が想像してストーリーを楽しむ余地のある短歌だ、という見方を大切に絵を描いてみました(もちろん他の読み方もあるかもしれませんが)。ぼくの答えはこの短歌絵の中にあるのですが、それは言葉では語らないようにしますね(枡野書店イラストレーション教室やイベントで質問してください)

短歌絵は、短歌の読み方を「提案」するつもりで描いていくようにしています。その「提案」もし過ぎないように注意を払わなければならず、イラストレーションの難しいところは絵の技術の腕を振るうことよりもいかにその文章にさり気なく寄り添い、邪魔をせずに読み手の想像の幅を広げるアシストをしなければならないというところです。大概イラストレーターは絵を描く技術が自慢であるから、短歌なり文章をひとたび解読したら、思い切り描いて表現したくなります。思わず主役に躍り出たくなるわけです。また、脇役のつもりでも、説明的に描き過ぎてしまうと、読み手の想像の幅を狭めて絵の中に短歌を閉じ込めてしまいます。どんなに素晴らしい絵でも、文章を殺してしまう絵はイラストレーションとしては酷いということになります。さて次は、ぼくのイラストレーションをポスターに起用頂いている劇団「大人の麦茶」座長でもある池田稔さんの短歌です。でもぼくは今回の ネコ短歌コンテスト の審査には関わっていないので知人贔屓ではないです。

【短歌】

どこにでも
いるしましまのねこなのに
なんでそんなにいばっているの

池田稔(東京都 47歳)さんの短歌

この短歌はぼくのような短歌の素人でもある程度読みとりやすい内容です。ただしこれにイラストレーションを描こうとすると、実は難しい部分もありました。当たり前のことですが、それは「どこにでもいる猫」と「いばっている猫」が同じ猫を指していることです。この猫をイラストレーションにしようとしたときに、思わず「いばっている様子」を描こうとすると、その猫の絵は「どこにでもいる猫」にはならないからです。この短歌にイラストレーションを付ける場合は大概猫の絵を描くと思うのですが、「普通の猫」をどういう風に描いたらいばっているような感じが出せるか、という”描き方”で勝負することに決めました。教室でこの話をしているときに、枡野浩一さんがお茶の準備をしながら話を聞いておられましたが、「この短歌ももしかしたら暗喩、比喩かもしれません」とおっしゃいました。猫を描きつつ、人間の実社会を描いているのではないか?ということです。ぼくの場合は、実体験でごく普通の猫からされた「態度」をこのように描きました。この短歌に出てくる猫は、本当はいばっていないのかもしれません。何か必死になってしまい、このような態度をとってしまったのかもしれません。「いばっているようにみてしまう」こちら側にこそ問題があるのかもしれません。そんな想像をしながら描いてみました。答えは、それぞれの読者の中にあります。ひとつ付け加えると、この短歌は全てひらがなで書かれていて、それが楽しかったです。イラストレーションに手書き文字を書く場合、ひらがなと漢字の文字のバランスは割と重要です。漢字だと重い言葉が、ひらがなにするとよくなったり、様々バランスを考えて漢字とひらがなを使い分けてみることも考えてみてください。

【短歌】
本当は大さじ一杯ネコを入れ可愛い私を作りたかった

(ペルセウス座流星群)さんの短歌

この短歌の場合は、誰もが大概スプーンに猫がいる様子を描きがちで、ぼくもそこをあえて避けずに描くことを選択しました。本当に難しいのはスプーンに入った猫はどんな風か、どんな風にすくい取られ、「私」とかかわるのか。というようなところが考えどころになってくると思います。これは具体的に描きすぎると解釈の幅を狭めてしまうため、ファンタジーの要素ではぐらかすに留めました。イラストレーションの場合は文章の解釈から”逃げる”のもありです。この短歌の魅力の大部分は言葉の可愛さなので、イラストレーションはその可愛さを引き立てて、意味にはあまり触れすぎないようにしました。こんなに可愛い短歌を詠めるという時点で作者は大さじ何杯か猫が入っていると思います。

以上四首の短歌絵は枡野書店イラストレーション教室で披露したのですが、枡野浩一さんの解説を聞いて初めて気づいた四首の読み解き方が新鮮でした。ぼくはそこまで深くは読めていませんでしたが、四首に対してイラストレーションの考え方に基づいて描いたことが、枡野さんの解説と遠からずな部分が多く安心しました。文章を完全に読み解けなくても、その文章のどこかにある可愛さや切なさ、滑稽さに触れる無理のない”間合い”をとることで自然とそれなりに絵は描けていくのではないかと思います。短歌に絵を描くのはとても楽しい仕事のひとつです。短歌を詠まれる方々はとても高度なインテリジェンスと感性があると思います。ひとつの短歌に絵を描くために、これまでに述べさせて頂いたくらいは考えを巡らせて、情感に触れようとする者もいるということも、短歌制作の際に思いめぐらせて頂ければ幸いです。

それぞれの短歌がより多くの人に届くことの一助となれば幸いです。

そして 絵本「ネコの名前は」(絵本館)をよろしくお願いいたします。

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