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三匹目の鶴は、駅前で哭く。EPOCHMAN新春ひとり芝居「鶴かもしれない2020」

※:この感想では、なるべく直接的なネタバレは避けるつもりですが、
 どうしても「ネタバレっぽい」記述が入ると思います。ご理解ください。
※:芝居の感想と紹介にはどうしても写真をあわせたいので、
 小沢道成くんが
 Twitterでアップしている公式写真を使用させていただいてます。
 問題があればご連絡ください。

私が敬愛し、毎回公演を滅茶苦茶楽しみにしている演劇プロジェクト、「EPOCHMAN」。
その2020年最新作は、2014年・16年に続く代表作三度目の再演。
そして「駅前劇場で一人芝居」という、実にチャレンジに満ち溢れた公演。
これが成功すれば、この作品は確実に「小沢道成のライフワーク」になる。

そういう意味では、小沢道成くん自身だけでなく、スタッフ・関係者も、
そして観客にとってもターニングポイントになるだろうという、
期待と不安が劇場に充満している中で、たった5日間だけの幕が開く。

私は初日8日と、楽前日の11日の2回鑑賞。
2回観賞して、結論から言えば「ああ、ミッチーはこの作品と一生付き合っていくんだな」という覚悟を決めたことを感じ取り、受け止め、賞賛するのです。

初演と再演もたしかに素晴らしかったし、過去2回の公演を観て大好きになったし、初演と再演を観れたことを誇りにすら思ってる。
でも、その初演再演に失礼だと思いながらあえて言わせてもらえば、
この「2020」は、とにかく完成度が初演再演の比ではなかった。
試行錯誤の初演、シンプルにより深化を目指した再演に対し、
三演目「2020」は歌あり踊りありのエンターテインメント性が
より強化され、入り口が非常に広くなった。
そして、エンターテインメント性が高くなった一方で、道成くん演じる「女」と「男」のバランスがまた変わり、
セリフ周りはほぼ同じはずなのに、初演再演とは確実に
似て非なる作品になってしまった。

…そう、「なってしまった」のである。
私自身、まさかここまで心が揺さぶられるものになろうとは、
想像を遥かに超えていた完成度に、最後はゾクゾクと鳥肌が立ちっぱなしだったのです。

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物語の概要などは「ステージナタリー」とか「ぴあ」に公演レポが
詳しく掲載されているので、どうぞそちらで。

元々小沢道成くんは、
女性が嫉妬してしまうほど女性役に定評がある役者ではありますが、
今回の「女」は初演再演からは年齢が若干上がった設定のようで、
だいぶ洋装テイストが加わった着物衣装と、
エクステの工夫が面白い髪型とメイクの効果も相まって、
色香がより強く、そして「生々しさ」に拍車がかかってました。
だからこそ、「女」が惚れた「男」との対比がより深まり、
(特にクライマックスでは)よくもまぁここまで二人のキャラを
瞬間瞬間で入れ替えられるな、という感嘆の演技を見せつけてくれます。

そして作品自体と同じぐらい、毎回楽しみなのが舞台装置。

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このセットをほぼ一人で発案し、材料を選び、(もちろん何人かのお手伝いもいると思うけどほぼ)一人で作り上げるというのが凄い。
この背景だけでも作り込みが凄いのに、ここに仕込まれてる各種装置のアイデアが秀逸すぎて。
「ここにこんなものが!」「こここうやって動くのか!」「え、これこういう展開をするの!?」と、ただただ驚くわけで。

だから、ほんとみっちーには一度「ルーム型のリアル脱出ゲーム」を作って欲しいと、公演見るたびに痛切に思うのですよ!
絶対面白い仕掛け満載の公演ができるはずだから!
謎解き製作者は一度見に来なさい!絶対!

…話がちょっとそれました。

基本コンセプトは初演再演と同じ。
「三台のラジカセから立体的に流れてくる台詞と演者の掛け合いによる、
擬似1.5人芝居」
この「1.5人」というのがこれまた秀逸で。
舞台上にいるのは一人だけなんだけど、(同じく小沢道成くんが吹き込んだ)声がラジカセから立体的に聞こえることで、
「話し相手」が観客にも容易に想像できて、一人舞台でありがちな
「無音の間」が殆どない。だからテンポが凄く良くて、
わずか60分という上演時間なのに、密度的にはその2、いや3倍には
なってるんじゃないかと。

だから、こんなにも濃く激しいひとり芝居、そりゃぁ小沢道成くんも汗だくになるし消耗するわな。

さて。
実はここからが一番書きたかったこと。

今回の三演目を観て、私が初演再演とは一番変わったなと感じたこと。
それはこの「女」と、女が惚れた「男」の立ち位置、なのです。

初演と再演を観た時の一番乱暴に端的な感想は、「これは愚かな男に惚れた愚かな女の悲劇だな」、でした。
でも三演目を観て気づいたのです。
二人は決して愚かではなかったんだと。
「男」はちょっとだけ思考が潔癖で夢見がちだっただけで、
「女」は少しだけ純粋で、自己犠牲の気持ちが強いだけ。

ただ、お互いそれぞれの形での「依存」が強くて、
特に女はその「依存」を解消する方法を「それ」しか出来なかっただけ。
そして「依存」できれば、相手は誰でもいい。
目的は「依存の自己満足での解消」なのだから。

「自己犠牲の依存症」は厄介だけど、それは愚かでもなんでもなくて、
誰にでも起こりうるかもしれないし、だからこの物語は、どこにでもあることなのかもしれない。
そう、これはどこまでも「かもしれない」物語だったんだ。
そしてだからこそ、これは決して「悲劇」ではない。

だから最後の最後、幕が下りる(暗転する)直前のたった1秒のとき、
「女」はあんな表情をする。
全ては、あの1秒の表情のために60分があった。
私はその表情があまりにも魅力的で、そして恐ろしくて、
とてつもなくゾクゾクしたんだ。

駅前劇場というこれまで以上に広く、これまでとはぜんぜん違う空気に満ち溢れた舞台を、たった一人で息つく暇なく縦横無尽に使いこなし、
初演と再演では決して気づかなかったことに沢山気が付かせてくれて、
それ故最後の1秒にゾクゾクする。
(これまでの公演でもしてきたのかもしれないけど、気づいたのは今回が初めて)

私は「鶴かもしれない」を観れたこと、
初演再演に続く三演目もしっかり受け止められたこと、
あの鶴の切なくも美しい哭き声を今回も聞けたことを、
多分これからも誇りに思うし自慢していける。

そしてだからこそ、早くもきっと数年後に上演するであろう四演目が、
今から待ち遠しくて待ち遠しくて、しょうがないのである。
30代後半、40代、50代と節目節目にきっと上演されていくであろう
この「鶴かもしれない」という作品が、今後どのように熟成され、
また変わっていくのか。
私もこの「2020」を観て、追いかけていく覚悟を決めたのです。

…おっと、その前に横浜公演がありましたな。
三台のラジカセの他に映像が加わるとか。
…全然想像できない…楽しみ…!!

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