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新国立劇場「ラ・ボエーム」開幕記念 なんで最後はあんなに泣いてしまうのか?

プッチーニの名作「ラ・ボエーム」が6月28日より新国立劇場で上演されます。「ラ・ボエーム」というとクリスマス・イブをイメージする方が多いと思いますが、第3幕はそれから2ヶ月ほどたった2月、第4幕はさらに数ヶ月が経過していますので、「クリスマスの話」だけではないのです。その時間経過がそのままロドルフォとミミの『出会い→別れ→死』を辿るわけです。

二人は1幕で出会い恋に落ちます。互いの自己紹介アリアが終わると、二人は初めて声を合わせてメロディーを歌いあげます。それまでの二人の声は重なり合うことはなく、対話と一人語りが続いていたのです。

ここで音楽は激しく高揚し二人の声が重なることにより観客はエクスタシーを感じることになります。そもそも声の重なる前のロドルフォの気持ちがエクスタシー状態なのです。是非ト書きにも注目してみてください。(以下の譜例41番)

(ミミはもっと窓辺に寄る、月の光が彼女を照らすように。ロドルフォ、振り向きながら光のきらめきに包まれたミミに気づく、そして彼女を熱く見つめる、ほとんど恍惚状態で。)
ロドルフォ「おお、麗しい乙女よ、おお、輝きはじめた月の光に優しく包まれた優しい面影、貴女の中に僕がいつも夢見ていたかった夢がある!」

好意を抱く詩人にこのように言われては、声を合わせずにはいられない!という感じです。歌はフォルテ一つなのに対し、オーケストラはfffとフォルテが3つも書いてあります!!!(ちょっとプッチーニやりすぎ⁉︎やしないか。歌が消えないように若干オケは加減しますが。)

よく見てみると、メロディー
『ラーーソファーラーソファミー』
は同じなのに歌っている内容は違います。

ロドルフォ「心の中ではもう最高の甘美が震えおののき、口づけの中に愛が震えているのです。」

ミミ「ああ!愛よ、おまえだけがそうさせるのね!おお!なんと甘く愛の喜びが心にしみるのでしょう・・・。愛よ、おまえだけがそうさせるのね!」

このあとに愛を告白し、幕の最後では"Amor"という言葉を「一緒に」歌うのです。普通の上演ですとロドルフォはミミと同じメロディーを歌うことが多いのですが(ここでハイCを出すのです!)、スコアにはそのような音は書いていません。

私個人としては、プッチーニにアトラクション要素はいらないと考えています。他の作品で音を変えて歌う箇所もありますが、あくまでもドラマの文脈で必然性がある場合のみにすべきと思います。ここでのロドルフォがハイCを出すためだけにミミと同じ音を歌うのは、ドラマ的に違うのではないか、といつも思うのです。ミミのハイCを彼が和声的に支えるほうが、よほどドラマの理にかなっていると思います。私はテノールのハイCよりミミのハイCが聴きたい派!音量は pp に perdendosi が付いています。周りのオーケストラもとてもデリケートですし、"Io t'amo!"と情愛込めて歌った後の絶叫はいただけない!

ちなみに二人が「同じメロディーで、同じ歌詞を歌う」のは3幕後半のみです(2幕のちょっとした箇所は除きます)。例えば幕ぎれのここ。

歌詞も音も同じ箇所、例えば3幕最後「花咲く季節にお別れしましょう!」

4幕、ムゼッタが重病のミミを連れて現れます。ミミは懐かしい部屋に戻れた喜びを歌います。ミミの「蘇るみたい」という言葉を聞き、再び二人は同じメロディーを歌います。そのメロディーは、ハーモニーは全く違いますが、音の動きは
『ラーーソファーラーソファミー』
と、1幕で初めて声を合わせて歌ったときと同じです。

この箇所で1幕のその場面を思わず思い出すという方も多いのではないのでしょうか?音の連なりが同じことが、潜在的にそれを思い起こさせるのです。これプッチーニの天才的な作戦なんですよ!ホルン4人が二人の声より一拍遅れて入声するのも感動を高めるのに一役買っています。そして二人の歌詞はやはり違っています。

ミミ「よみがえるみたい、また元気になれるように思えるわ」
ロドルフォ「かわいいその口が またぼくに話しかけてくれるんだ!」

ムゼッタ、ボヘミアンたちは愛し合う2人を残して静かに部屋を出ます。練習番号20番で、1幕の威勢の良いボヘミアンの音楽が、弦楽器によって柔らかく再現されます。それに続き1幕後半、恍惚状態でミミに語りかけた音楽(最初の譜例参照)が、若干のハーモニー変更を伴って愛情深く響きます(20番の10小節目)。そして2人が初めて声を合わせたメロディーに達すると(21番)、楽譜にはこうあります。
『ミミは目を開いて、皆行ってしまったのを見ると、ロドルフォに向かって手を差し伸べる、彼は愛情を込めてその手にキスをする』
まさに二人で声を初めて合わせたメロディーの箇所でこれが起こるのです。観客は皆、1幕での二人の愛の場面を思い出さずにはいられません。

21番のここではC-durになるのでメロディーは
"ドーーシラードーシラソー"
となるわけですが、ちょっとここで考えてもらいたいことがあります。
その4小節前からの進行を見てみると、コードネームで
G-A₇-D-D
となっており、和声法で習う機能を当てはめてみると
T(トニック)-S(サブドミナント)-D(ドミナント)-D(ドミナント)
となります。和声法の常識で言えば、ドミナントの次に来るのはトニックですから21番ではG-durの主和音が来るべきです。ところがプッチーニが書いたのはC-durの主和音、これびっくり進行です!和声のテストなら✖️です。
この意外性のある進行が、新しい風景を見せ、強烈な印象を生み、感動、そして涙へとつながっていくというわけです。1幕の同じ箇所もこの進行です。

ちなみにこのメロディーの初出箇所は1幕ロドルフォのアリアの最中ですが(Talor dal mio forziere)、ここはAs-durドミナント→トニックの真っ当な進行をしています。

涙と感動の理由にはこうした音楽的な秘密が作用しているんです。

(追記:上記に「初出箇所」と書いたが、実はこの音の動きはすでにベノアのシーンに出てきている。なんだか初めて聞いた気がしないというのならば、すでに擦り込みがなされているからである。これもプッチーニの動機操作によるもの。)

これに続きミミの最後の歌 "sono andati?" が始まります。もとより感動的な歌なのですが、プッチーニの和声的な仕掛けがまた泣かせます。以下の譜面3段目最初の小節の和音はc-mollのⅡ₇ですが、第3音Fは前の小節から保留される形で倚音Gをとります。2小節前(coseの小節)から上声部はラ♭ラ♭ラ♭ラ♭|ソソソソ|とくるので本来ならこの小節は ファファファファ でもおかしくないのです。しかしイレギュラーにG音がくるのがプッチーニの天才的なところです!このG音はⅡ₇には解決されずに、次の属7へ進行します。この一種の不協和音でなければ「たったひとつのことかも知れないけれど、海のように大きなこと」"o una sola, ma grande come il mare"がここまで感動的にはならないでしょう。"ma"という言葉を引き出すためのテンションになっているのです。

各小節の頭の音を拾っていくと
ドシラソファミレド
と音階になっているのだ!

この音楽は全曲の一番最後で感動的にオーケストラで再現されます。ただしメロディー最初の2小節は3/4になります。馴染みのある聴者にとっては当然のことですが、もしこれがミミの歌通り4/4だったらどうでしょう?感動するには変わりないでしょうが、一拍削られた切迫感はなくなるでしょう。これもプッチーニの仕掛け。そしてミミの歌で説明した倚音も再現されます。もしこの倚音がなければその涙は薄まってしまうでしょう。その証拠にプッチーニはこの倚音(ここでは1番ホルンのG♯)に"sensibile il Ⅰ.Corno"と記し、強調して演奏するよう指示しているのです。

ミミの歌と同じく、小節の頭の音を拾っていくと音階になる。

タイトルに「なんで最後はあんなに泣いてしまうのか?」と付けました。もちろんドラマ自体が泣けるものである上に、プッチーニの施したこうした音楽的仕掛けがお客の心に潜在的に響き泣けてしまう、というわけです。

「ラ・ボエーム」という作品は、こういう音楽的アイディアがあらゆるところに仕掛けられ、非常に精巧にできているのです。それらが全て必然性を持っているというのが名作と言われる所以です。

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