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足摺七不思議 竜の駒~天狗の鼻で上人は語る

御坊へ伝えたいことがあるので、場所を変えていいですか。
上人は、御坊の返事を待たず歩みを進める。



足摺岬展望所の東側岩壁に、かつて「黒龍」が在った。
今は、崩れて見えない。

「天狗の鼻」と呼ばれる場所から見える「東側断崖」

花崗岩断崖の地層に竜脈のような玄武岩が流れる、
綺麗な黒色の岩脈。

~足摺七不思議 竜の駒~


足摺に伝わる密教。
三輪身 
大日如来の教令輪身

火界咒(かかいしゅ)
ノウマク  サラバタタギャテイビャク  サラバボッケイビャク
サラバタタラタ センダマカロシャダ  ケンギャキギャキ  サラバビギナン ウンタラタ カンマン

観ぜよ

大日如来変じて、

大日大聖不動明王となる。



不動明王変じて、

三昧耶形にはいり、利剣と成る。

衆生を救済するため
一切の邪悪、罪障を滅す。

この利剣を倶利伽羅剣と云う。

えっ。 青○ク?
ドラゴン召喚。剣の錬成魔法。ジャパニーズ ファンタジーですか?!

利迦羅とは、サンスクリット語のkulikaの音写である。
クリカはインドで八大龍王の内の一王の名であり、
『陀羅尼集経』では鳩利龍王とも訳されている。

倶利迦羅竜王は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついているさまで形象され、この竜王は不動明王の化身として特に崇拝せられる。
剣と火炎は一切の邪悪、罪障を滅ぼすといわれている。

大海へと突き出した利剣(足摺の断崖)は、
「岩肌の宝剣」へ火炎如き荒波に包まれた「黒龍」が巻きついている。
宝剣から伸びた黒龍が海へ躍り、「黒色の潮の流れ」の体を見せ、
宝剣(足摺岬)を巻く。

宝剣の「岩柄の先」には、灯台(足摺七不思議 燈明台 経塚)があり
海の波紋光る刀身に、波爆ぜる不動岩が浮かぶ。

宝剣の西側岩壁には、黒色の岩脈は現れていないが、
黒龍がとぐろを巻く「竜の遊び場」(足摺七不思議)、
「寝笹」(足摺七不思議)の物語は残っている。



真言宗智山派総本山智積院ホームページにある
愛宕薬師フォーラム報告
第38回 愛宕薬師フォーラム 令和元年12月16日  別院真福寺において
「お大師さまが出会った仏教」と題して
講師:中村元東方研究所専任研究員 吉村 均 先生のお話

このお話が、

足摺七不思議「天狗の鼻」の場所で、

昔金峯上人(役の行者)天魔(天狗)障害するにつき一指をあげて降したる

場面で、

「上人が語る物語」を再現しているように思う。



先生は、講演の最後にこう語る。

「十住心」は、
お大師さまの個人的な考えではなく仏教の全体像なので、真言宗に限らず、他宗の僧もこのような全体像を踏まえて教えを説かています。

同じ仏教をそれぞれの視点から教えられているので、どの教えが、どの宗派が優れている、ということではありません。

近年、世界的に仏教に関心が高まっています。
欲しいものを追い求め続ける現代社会では、どこまでいっても苦しみは消えません。ものの見方、心を変えなければダメだということに気づいた人たちが、伝統的な仏教の教えに共感しているのです。

そういった人たちが目指している仏教の全体像が、お大師さまの「十住心」で示されています。

ありがとうございました。


                    
先生のような想いで、
上人は、天魔へ情理を尽くして語りかけたと思われます。

未来で講演した先生の言葉を借りて、
上人が御坊へ、十住心を説明する。                  

第一住心から第三住心までは、
仏教に至る前の私たちのものの見方に合わせた教えが説かれています。

第一住心 異生羝羊心(いしょうていようしん)
 異生は凡夫を指します。欲望のままにふるまい、欲しいものがあれば人のものでも盗り、気に入らなければ人を殺める。幸せになりたいと思って欲望のままにふるまっているが、視野が狭いため、自分の行為の結果として、さらに苦しみが広がることに気づかない。

幸せを願いながらも苦しみを求める者達を
足摺七不思議では、「二面一足」の天魔と呼ぶ。
天魔へ語る。


第二住心 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
 愚童は凡夫を指し、持斎は戒律に則った生活をするという意味です。欲望のままにふるまっている人でも、何かをきっかけに良いことをすることがあり、それが2度、3度と繰り返されるとそれが習慣化し、その結果、心が変わっていきます。
第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 良いことを繰り返し、心が変わることを実感できるようになると、修行をして、神々の世界(ヒンドゥー教)へ生まれ変わりたいと願うようになります。
 神々の世界もいくつかあり、欲界の神の世界は、自分の願いが全て叶う世界であり、良いことを行うとそこへ生まれることができます。色界と無色界はもっと高い神々の世界です。瞑想して、何も心に思い浮かばない、深い無の境地にあります。色界では身体があり、瞑想し続けますが、無色界は体も無くなり、瞑想している心だけがある世界です。インドの他の宗教では、これこそが苦しみからの解放の境地であるといいますが、
仏教ではそうはいいません。
原因によって得られた境地ですから、原因が尽きてしまえばその境地も終りを迎えます。ですので、永遠の安らぎではありません。

このことを理解した時、輪廻から抜け出したいという動機が心に生じます。

動機がなければ、その先の教えは役に立たないというのが仏教の伝統的な考えで、この先が仏教固有の段階になります。

「佛の道」と「佛の道の外」を知る者達
足摺七不思議では、この者達を「さだしていたこと」に気づいた者と呼ぶ。

デジタル大辞泉
さだ【▽時】
読み方:さだ
時機。また、盛りの年齢。→時(さだ)過ぐ
「時」に似た言葉» 類語の一覧を見る
折り頃潮時時機時期
さ‐だ【×蹉×跎】
読み方:さだ
【一】[名](スル)つまずいて時機を失すること。
「嗚乎呉を沼にするの志、空く—し」〈東海散士・佳人之奇遇〉
【二】[形動タリ]時機を逸しているさま。不遇であるさま。
「日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生(しゃう)すでに—たり」〈徒然・一一二〉

天魔蹉跎して退散したるにより蹉跎山と云ふなり

蹉跎山。意訳で足摺山の由来となる。

第四住心から第七住心は、
ものの見方からの「解放を目指す教え」となります。

伝統的には三乗の教えといわれています。
『法華経』にある「三車火宅の譬え」という例え話に基づいています。
その話は、長者が火事の家から子供を救うために一計を案じ、三つの車(羊車、鹿車、牛車)を用意し、出てきた子供には大白牛車をあたえた、というものです。
私たちはものの見方から解放された状態がどのような状態なのかを知りません。
またそこへ行く方法があったとしても、納得しなければ修行をしません。
それぞれが納得する形での説明が必要であるために
3種類の教えがあるのです。

小学生が、自身の持っている30㎝の文房具で、月の大きさが測れるか?
自分の持つ知識で納得できる。
今の知識でわかるものであれば、伸びしろはそこまでであろう。
成長とは、今の自身が「知らない自身の状態」をいうのであって、
成長をしたと実感できるのは、成長した後で、振り返って初めてわかるものである。
納得しなければ修行をしません。と云う態度は、
学ぶ事の知らない。成長の経験のない人達の態度である。
そんな存在へむけての「三種の教え」です。

第四住心 唯蘊無我心(ゆううんむがしん)【声聞乗】
 第四住心は、羊車の教え、声聞乗があてはめられています。煩悩は私たちの苦しみを掻き立てる原因となっていますが、煩悩を全て断ち切った境地、阿羅漢を目指すのがこの教えになります。ここではお釈迦さまの教えを聞いた弟子たちがまとめた『阿含経典』を理論化したもの(アビダルマ)が説かれています。

第五住心 抜業因種心(ばつごういんしゅしん)【独覚乗】
 第五住心は、鹿車の教え、独覚乗があてはめられます。
お釈迦さまが悟られた際に瞑想した十二(支)縁起――「無明」(物事を正しく捉えられない)が、老死に代表されるさまざまな苦しみを作り出す過程を、12の段階で瞑想し、「無明」を取り除けば、苦しみもなくなるという教えです。
お釈迦さまは、瞑想してこのことを悟られたのです。苦しみから抜け出すための法則は以前からあり、お釈迦さまはその発見者であり、私たちもそれを発見できれば苦しみから解放されると考え、悟りは開くが教えは説かない独覚仏を目指します。

第六住心 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)【法相宗】
第七住心 覚心不生心(かくしんふしょうしん)【三論宗】

 ここでは牛車の教え、菩薩乗があてはめられています。無我を悟り、自身の苦しみがなくなったお釈迦さまは、他の生き物を苦しみから解放するために教えを説かれました。
私もそのような仏陀を目指したいというのが菩薩乗です。

第六住心は唯識の教えにあたり、第七住心は中観の教えにあたります。
 唯識では、今現在私たちがみつめ、現実だと捉えている世界を、どのようにして瞑想によって変えることができるのかを理論的に説いています。

自分が納得する教えでなければ実践しないでしょうし、何に納得するかは人によって違いがあるので、ある人は声聞乗を、別の人は独覚乗を、菩薩乗を目指すという三乗が設定されているのです。

優劣を競うためではなく、自分が納得したものを選ぶということなのです。

声聞乗を「学」として納め、独覚乗を「業」として学び、菩薩乗を「徳器」として、三乗の教えを成就する姿勢も良し。

さて、仏教において大きな転換点となるのが、第七住心の教えになります。

第四住心から第六住心は苦しみからの解放の境地をめざす教えでしたが、
そもそも、苦しみからの解放はどこか外に出るのではなく、実体視から解放された境地なのです。

その境地を示しているのが第七住心で説かれる中観の教え、『般若心経』の「色即是空 空即是色」や「煩悩即菩提」の教えになります。

 ここでは仏性(如来蔵)も説かれており、一切皆空と悉有仏性は視点の違いだけで同じことをいっています。
 欲しいものがあり、嫌なものがあるこの世界が真実ではないことがわかるのが「空」を理解することです。
 「仏性」とは本来清らかなものですが、一時的に汚れているのでみえなくなっていて、その汚れは「私」、「私の」というものの見方です。
その汚れを取り除いた「空」の状態、「空」を理解した状態が「仏性」を理解した状態といえます。

「空」と「無」は違う。
無は、何もない。
空は、 “Let it go,Let it go” (ア○雪)
はぁ?
いや。状態でしょうか。

「水」が、一時的に熱すれば、その状態は「湯」。「湯」というものの見方です。「湯」の状態から、さらに「熱という縁」を与えれば、「蒸気」となり天空へ登り「雲」となる。「寒冷の縁」を与えれば「雪」となり大地へ降り注ぐ。水の性に変わりなく、ただあるものは「変化」のみ。
「空」とは、縁によって変わる、状態を表す言葉。
色も与える縁によって「空の状態」となり、
煩悩も与える縁によって「菩提の状態」となる。

「空の状態」を理解した状態が、「佛性」を理解した状態といえます。
(佛とは、人でありながら人で非ず。特別な存在である)

第八住心、第九住心では「空」を理解した境地の一乗の教えが説かれます。第八住心は『法華経』、第九住心は『華厳経』の世界が説かれています。

第八住心 一道無為心(いちどうむいしん)【『法華経』】
第九住心 極無自性心(ごくむじしょうしん)【『華厳経』】

第九住心の『華厳経』では釈尊が教えを説く前の教えが記されています。
瞑想中の仏陀の周りに、悟りの境地を理解した菩薩たちが集まり、
一人の菩薩が今、仏陀が何を考えているのかを他の菩薩へ教えています。
さて、
お大師さまは『華厳経』を踏まえるかたちで『法華経』を仏教全体の中で第八住心に位置付けています。

仏の体を法身、報身、化身の三つに分類する仏身論があります。
法身は、通常の説明ではかたちのない悟りそのものをいいます。
報身は、修行の結果得られたかたちある姿ですが、私たち凡夫は見ることができません。
化身は、衆生を救うために衆生に合わせてあらわれた姿であり、
お釈迦さまは化身の仏陀とされます。
そして、
お大師さまは『秘蔵宝鑰』や『弁顕密二教論』において仏教の分類をこの仏身論にて説明しています。

 ●化身の仏陀であるお釈迦さまの教えが三乗の教え。
 ●報身の仏陀である盧舎那仏の教えが一乗の教え。
 ●法身の仏陀である大日如来の自受法楽
(他に教える教えではなく、さとりそのものをいっている)
が真言乗の教え。

このように分類されています。

『法華経』では、
久遠実成の教え「お釈迦さまの教えは全て方便の教えであり、実は遥か昔に悟っていた仏陀であった」と説かれています。

それを『華厳経』の盧舎那仏(報身)は、私たち凡夫には見えませんが、それが見える菩薩が教えを他の菩薩に説いていることに対応させ、遥か昔に悟って仏陀となった「久遠実成の仏」は報身であり、直接教えを説かず、化身のお釈迦さまがそれを説明するというのが『法華経』であり、第八住心に位置付けられたのです。

さとりそのものは、本来言葉ではあらわせないものですが、

第九住心までは言葉で導こうとしていました。

そして、
言葉を超えた境地を、
そのままのかたちで体験するのが第十番目の教え、密教の教えとなります。

第十 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)【真言乗の教え】
 密教では灌頂という秘密の儀式がありますが、灌頂を受けていないと第十住心の教えを説いてはならないとされます。
言葉だけで説明してもわからない、経験しないとわからない教えだからです。

言葉だけで説明してもわからない、経験しないとわからない教えであるが所以に、「天狗の鼻の場所」で金峯上人は、役の行者(神変大菩薩)へ変じて、黒龍を見せ、猪鼻を見せ、御坊へ語る。

お大師さまは唐へ渡り、恵果阿闍梨から灌頂を受け、密教の教えを学びます。当初お大師さまは、二十年の留学予定でした。
しかし、
灌頂を受けることにより僅か二年ほどで仏教すべてを理解し、日本へ帰国します。

なぜお大師さまは、灌頂を受けることによって、仏教のすべてを知ることができたのでしょうか。

曼荼羅は、仏の周りを仏が囲んでおり、「私」「私の」というものの見方から解放された境地を象徴的にあらわします。

また、お大師さまは、密教の教えは「法身説法」とおっしゃいます。

これは何を指しているのかを『般若心経』を手掛かりに説明したいと思います。

ここからが、足摺七不思議 天狗の鼻のいわれと重なるところです。

第一住心から第三住心の教えは、ものの見方にあわせた教え「色」=「かたち」であり、第四住心から第七住心はものの見方からの解放、つまり「色」から「空」=「悟りの境地」を目指し、「空」を体験した世界をあらわしたのが第八、第九住心であります。

私たちが感じている今の世界とは違う世界が描かれ、通常は経験できず、感覚が対象を捉えないほど深い瞑想に入ることにより「空」を体験できるとされています。
しかし、
瞑想が終わると再び対象を感じてしまいますが、「空」というものをすでに理解しているので、対象はあっても、実体としては映らなくなります。
この境地まで達した菩薩はさらにこの修行を繰り返し、瞑想中の「空」と瞑想後の差が全くなくなることが修行の完成、となります。
ですから「色即是空 空即是色」なのです。

修行が完成された段階では、世界を構成する要素(五大〈地水火風空〉)のあらゆる響きは全て仏陀の悟りの境地と同じであり、仏陀の教えであるとします。このことを法身説法といいます。
しかし、
今現在、私たちは法身の説法を聞きとることができないので、
報身や化身の姿であらわれ、言葉で法身の境地の入り口まで教えてくれるのが顕教であり、

法身の境地の扉を開いて中に引き入れてくれるのが密教の灌頂なのです。

伝統的に仏教(顕教)の言葉は「月を指す指(ヒント)」といわれ、
それをもとに「月を見つける(答えを探す)」のが仏教の勉強とされます。

指を手掛かりに月を探す必要があるのです。

一方、密教の灌頂では、

師がすでに月(答え)を見ていて、言葉を超えた境地を経験しており、
その境地に弟子を引き入れて一時的に体験させる。

つまり月(答え)をみせてくれるのです。

お大師さまは、灌頂を受けたことによりその答えを知ることができたので、僅か二年余りで唐から帰国し、日本にその教えを持ち帰ったのです。
そして、
仏教の全体像について『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』にて示されたのです。

昔金峯上人(役の行者)天魔(天狗)障害するにつき一指をあげて降したる

天魔蹉跎して退散したるにより蹉跎山と云ふなり


天魔。足摺にて密教と出会う。
天魔は思う。
もっと早く出逢えていたら。
もっと若い時に出逢えていたら。
廻り道ばかりして時間を無駄にしてしまった。
もう若くはない。もう私には時がない。

Weblio古語辞典
学研全訳古語辞典 学研教育出版
あし-ずり 【足摺り】
名詞
地にすりつけるように足踏みをすること。じだんだを踏むこと。
▽激しい悲しみや怒りを表す動作。

御坊。 大丈夫だぁ。

今が、貴方の一番若い時。

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