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明日のうぶすなexperiment

2024年2月末日に、仙台フォーラスが休業した。
繁華街である国分町にほど近く、待合せ場所としてもファッションの発信地としても仙台民にとって纏わる思い出が無い人はいないほど、仙台フォーラスは長らく街の中心であった。

休業が決まり、テナントの撤退した5F(元々はメンズファッションフロア)がアートスタジオとして貸し出されていた。その一角で2022年に行われた「WORLD'S END UNDERGROUND」のメンバーで新たに実験的活動を行うという話を聞いたのが2023年の夏頃だったと思う。

撮影、記録映像を依頼され、2023年9月に行われたキックオフイベントから2024年2月の公演形式で行われた「明日のうぶすなexperiment」まで全てでは無いが創作過程から本番に至るまで立ち合う機会を頂いた。

と、ここまで書いてから2ヶ月近くが経ってしまった。
直接この公演と関係のない要素ではあるものの、この一連のムーブが私の奥底に何らかの作用を施したのではないかと思うほど、魂の摩耗するような、またかつてないほど高揚するような、恐ろしく内的に濃密な2ヶ月であったのが筆の遅れた言い訳だ。

2月のパフォーマンスから、季節も変わり仙台は今、桜が満開である。
去年見た桜を思い出そうとしてみる。帰路に咲く、ビルの袂の公園に植えられた桜だ。
次に、遥か昔花壇の公団住宅で見た桜を思い出そうとしてみる。陽の眩しい、色の強い桜だった。

この2ヶ月がそうであったように、今夜見た桜と昨年のビル下の桜、そして10年以上前の桜の記憶の間には、桜に纏わらない時間が膨大にあったはずで、桜と桜の間にはその分だけの時間的隔たりを当然ながら持っている。しかし「記憶」は同列に「今」私の中に想起されている。虚心に見るならば、古い記憶がセピアになったり新しい記憶が8Kだったりはしない。どの記憶も「今」立ち昇る同列な景色だ。しかしながら私たちには「記憶」或いは「思い出すという行為」に対して根強い誤解があるように思う。

分子生物学者の福岡伸一氏の書いた「動的平衡」によれば、確かに1970年代まで「記憶」は「物質」として脳の何処かに格納されている、という研究が為されていたようである。この記憶物質論は現在ではほぼ完全に否定されている説ではあるが、しかし我々は記憶を物質としてイメージし続けている。つまり、「思い出す」という時、脳の何処かに格納された映像なり音なり匂いなりを、引っ張り出してきて脳内で再生させる、だから古い記憶は引っ張り出しづらく(脳の引き出しの奥の奥に埃を被って眠っているイメージ)、新しい記憶はすぐに取り出せる、といったようなスキームをイメージしていないだろうか。

福岡氏によればこれはどうやら間違いである。
私が桜を見る時、当然ながら視覚を通じて桜の映像が認識される。これは桜の花びらが眼球を突き破って脳の襞に埋め込まれる訳ではない。「神経細胞」、それも10の11乗もの数の神経細胞が情報を伝達し合って私に「花壇公団住宅の桜」を認識させているのだ。この神経細胞ネットワークの接点であるシナプスはその10の11乗分の神経細胞より何万倍も多いといわれている。つまり神経細胞のネットワーク運動がどのように繋がり、形作られても良いように、接点となる場所には広大な余白があるという事だ。

「記憶」とはこの神経細胞のネットワーク運動の再現に他ならない。物質としてストレージされたものを出し入れするのではなく、一度形作られたシナプスの星座を、私という意識の主の命により動的に一時再現することが「思い出す」という事なのだ。

歳をとると昔のことはよく覚えているが昨日の昼食は思い出せない、というオジオバの自虐ネタを苦笑しながらよく聞くが、これは「新旧」の問題ではなく「再現運動の反復回数」の問題のようだ。シナプスの星座を何度も反復して再現したものの方が容易くその形を作れるが、そうでないものは難しい、という事のようだ。これはマクロな身体運動における所謂マッスルメモリーみたいな事に近いのかもしれない。

さて、大幅に「明日のうぶすな」から遠ざかり続けているが、「記憶」が「イマココ」で立ち上がるものである、という前提に立つ時「明日」とは何を指すのだろうか。そして「産土=うぶすな」という自己の産まれた土地、或いはその土地に宿る神についてどのように考えれば良いのだろうか。

明日のうぶすなというタイトルを聞いた時、私はまるでピンと来ていなかった。そもそも「世界の終わりのアンダーグラウンド」という冠名の下に「明日の」とは何事かとも思ったし、土着的な感覚や土地の持つ風土やその歴史に対して、私は元来関心が薄く、それらを匂わせる「産土」というテーマに対して、生まれた土地を離れて東京という土無き都会に暮らす者の郷愁めいた外側からの眼差し、といったような殆ど悪口に近い印象しか持てずにいた。例えば「東北」というような呼称にさえ「どこから見た方角で名付けてるんだボケ」というパンキッシュな違和感を感じている私にとっては、「土地」というサイズでのフレームワークに対して相当距離感のある受け止めをした記憶がある。

そう。この手のフレーム作りは私にとって次元的な「サイズ」の問題であると常々考えていた。例えば「家族、血族」というサイズでフォーカスすれば見えてくること。拡大して「地域、土地」。更に大きく「国家」。ジャクソンマイケル的に「地球」。ホーキング風に「宇宙」。フレームサイズによってフォーカスが変わるので、そのサイズから見えてくる「何か」はあまり重要でなく、結局はサイズを横断して通用する「普遍性」が重要なので、固定されたサイズの中で起きる事に関心を持てないのだ。

そういう私がこの明日のうぶすな実験運動に対して、ようやくピンと来たのは2023年12月のワークインプログレス(制作過程を公演形式で観客と共有する試み。公開稽古に近いニュアンス)のテーマとなった、「呪術/呪物」という言葉を聞いてからだった。

メンバーの鯨井氏の育った実家である花壇公団住宅に植えられていた桜の樹が、その建て壊しの際に鯨井家に引き取られ、乾燥した丸太となっていた。その桜の樹が、キックオフ以降フォーラス5階に置かれ続け、その空間の支配者然とした存在感で、舞台美術というにはあまりに突出した存在となっていて、それは正に「呪物」の名が相応しかった。しかし、だからピンと来た訳ではなかった。

「呪い」は現在、人間社会に張り巡らされた対人間/対物質に纏わるあらゆるリレーションから失われかけている。

アニメ「呪術廻戦」の中で、夏油傑という登場人物の「思う存分呪い合おう」という台詞に私は兼ねてよりときめいていた。「呪い合おう」とは最高密度の口説き文句であり、友情宣言であり、愛の発露であると私には思えた。

「呪い」とは別に禍々しいものだけではないはずだ。「頑張ってね」も「好きだよ」も「カッコいいね」も「綺麗だね」も、手を繋ぐことも目が合うことも何もかも「呪い」になり得ると私は考える。恋愛をイメージすると分かりやすいだろう。彼や彼女の一挙手一投足がその日1日を左右するような。彼や彼女の一言がその後の人生を一変するような。余談だが、大昔の恋愛相手に「グラスについた水滴を指で掬って舐める仕草がセクシーだ」と言われてその後数年間誰とデートしても水滴を舐め続けていた時期があったが、正に呪われていたとしか思えない。妖怪水滴舐めである。

話がズレたが、恋愛関係においてさえ、この「呪い合う」という深度で関係を持てなくなりつつあるのではないか、と危惧している。友人関係なら尚更顕著かもしれない。「損得」の理性的範疇を超えた「影響し合う」という「呪い」「呪われ」のどちらの能力も失われつつないだろうか。それは幾人と何度セックスをした所で発動しないものである。或いは何万人からイイネを得ても発動しないだろう。たった1人、深く影響し合える恋人が、友人が、人生に現れるならば幸運である。自分で自分を呪ったり呪われたりする人は沢山いるが、他者との関係性の中でそれを何人と実現出来ているかを自らに尋ねてみると面白いかもしれない。誰かの言葉や行動1つに人生を揺さぶられるほどのインパクトを受けたり、逆に自分がそれほどの影響を与えたりする事があるだろうか。音楽や映画、小説や詩や絵画とはその意味で遍く呪いであろうと思う。

資本主義的合理性が満開に花咲く現代において、呪ったり呪われたりの不合理且つ内的な露出度がDJSODA氏並みになるような開かれた関係性を、私たちは求めていないのではなく、求める術を失っているのかもしれない、と思う。

「私と他者」「私と物質」と同じ質量で「私と私の身体」を考える時、呪いという関係性はサイズを貫いて普遍性を持つはずだ。自分が何に呪われて生きているのか。何を呪って生きてきたのか。もっとも身近な呪いとは自分に与えられた名前だろうと思う。そこから始まる、血族、家族、地域や土地、国や主義思想、自然界の営みや宇宙の原理まで、「私」を巡るあらゆる関係性の間に呪いはあるはずだし、またあるべきである。

ゆく川の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず

1212年、方丈記の冒頭である。

江戸時代に仙台の治水事業として作られた「四谷用水」、その源となる広瀬川に直感を得たのかは不明だが、とにかく「水」をテーマに2024年2月の明日のうぶすな@フォーラスは行われた。

直線の無い広瀬川のS字と、直線的に引かれた四谷用水の路、それに沿うように直線的に引かれた仙台の街並み。インダストリアルな進化は曲線の破壊と一体であり、しかし原子の世界まで拡大するならば、工業製品とて1つも直線などは存在しないのだ。確率の世界である素粒子まで拡大するならば、"ゆく川の流れ"と同じように、正に動的な行進の一瞬を切り取った平衡状態が、"絶えずして"いるように見せているだけで決して元の水ではないのだ。

「私と私の身体」の間に呪いがあると書いた。
そのように、「私」という意識と「私の身体」という意識を別のレイヤーに配置する時、「踊り」とは何であるか。

鯨井謙太郒。
定方まこと。
野口泉。
APETOPEの音。
フォーラス。
呪い。
水。
うぶすな。
未来。

名前(言葉)を連ねていくだけで、イマココに想起され誕生し続ける空間と動きと音と、そしてもう2度と再現出来ない失われた形の何かが私の中に在る。彼らの身体運動によって、「私」と「私の身体」が分けられていく。その隙間に呪いのように、水が流れ落ちてくるように、入り込んでくる。分けられた私とは脳という身体のサイズの私ではなく、「私」と「私の身体」を分けた時に存在する「私」のことだ。そのように分けた時、この一連の運動体を思い起こす度に形造るシナプスの星座は、私の身体のように他者である。では、あの夜フォーラス5Fで踊っていた身体や鳴っていた音は「誰の」それだったのだろうか。

世界の終わりのアンダーグラウンドには、うぶすなという無銘の記憶を血の中に秘めて「今」「此処」に立つ「私」がいる。明日という「未来」に恋焦がれる「私」が。

2024.4.15 明日のうぶすなexperimentに寄せて
富田真人

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