経済成長がすべてか?マーサ・C・ヌスバウムを読んで

題名から経済学の本かと思っていたら、教育論だった。

国策(利潤)を追求するあまり、デモクラシーの存続に必要な技能を放棄し、想像力や創造性、批判的思考が劣化していることを危惧している。

そのような技能は何から得られるかといえば、それは「人文学」からだ。その現状をインドとアメリカを主な対象にして、検証している。

インドでは顕著に人文学の軽視が見れる。親たちは子供が工科、経営大学への入学は賞賛するが、芸術系だと恥とみなすらしい。それはアメリカでも見られる傾向だ。

そのような傾向を生み出す背景は、元来芸術家はイデオロギーに奉仕しないからだ。それを経済成長を重視する教育者は忌み嫌う。

それではその「忌み嫌う」という感情はどうして湧出されてしまうのか。嫌悪感という病理の中心には「純粋」と「不純」という二項対立が潜んでいるからだ。そこには想像力や思いやりが欠如している。

それではどのよう教育法がいいのか。それは、自己検証の重要性を説くソクラテス的な人文学(アテネのデモクラシー)を受けさせる教育法をとおして、伝統や権威への盲信を防ぎ、自分自身で考え議論するようにする。この考え方は、エスニシティ、カースト、宗教を異にする問題にも重要だ。

そんなソクラテス的な教育法を行った哲学者が紹介されていく。

そのような教育を受けた者たちを「世界市民」と呼んでいる。それでは具体的にどのような学びをすればいいのか。

若者には、経済学の基礎的原理とグローバル経済の働きを学び、それだけではなく、外国語、自国とその歴史を学び、世界史、宗教、馴染みのない文化的伝統について深く調べるべきだ。

そしてソクラテス的な批判的思考と共に芸術の重要性を説いている。それによって柔軟で創造的な知性が培われる。

しかしそのような民主的な教育は追い詰められている。数値的評価がしにくい人文学は助成金申請を査定する政府が、この分野に無関心だということで。

それでは財政的支援はどうなのか。それはそれで独立性の喪失が懸念されるというジレンマがある。

それと日本でも問題視されている「テストのための教育」も憂いている。機械的な教師と受身の学生の関係から、人文的な柔軟性や創造性が奪われてしまうからだ。

日本もアメリカの轍を踏むのではないか。科学においても基礎研究に対する予算が削られている。僕自身は文系思考だし、人文学、それに芸術も好きだ。だからその大切さは分かる。やはり、多様性を知ることができる。それは他者への理解、寛容などに繋がるのではないか。

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