「内」と「外」の「線引き」について―「内面」と「外面」、「無意識」と「意識」―

欧米的な思想の流れにおける一つの個体を単位に(対立図式としての)「自己」と「他者」が明確に分けられている捉え方、そのことが本当に現実の世界を描き切れているのか?
現実世界と照らし合わせたとき、必ずしもそうではないのではないかと思う事象は多々あると思っています。
例えば「自分事」と「他人事」という概念もそれです。
これは分かり易い。
このことは、地域や文化等々で、その「線引き」のあり方、明確さの違いこそあれ、人間社会において通じているものではないでしょうか。
このことは、要するにどこで「線引き」をするかということであり、それは曖昧でかつ流動的であることを示しているのではないか。

欧米的な「個」の確立、それから「自立」が目指され、それが人間の成熟度を表すという考え方が一つの評価指標であると捉えるならば、当然別の評価指標を想定することも可能であるはずです。そもそも「評価」という概念を導入すること自体にある種の避けられないバイアスが掛かっているかもしれません。

いずれにせよ、いったんその評価指標から少し距離を置いたとき、別の「線引き」による、よりシンプルな対立図式は何か?
それの一つとして「内」と「外」という対立図式があるのではないかと思っています。
どこかに「線引き」をした時に出てくる「内」と「外」です。

「自分(事)」と「他人(事)」という「線引き」からは「自分」は「内」であり「他人」は「外」という対立図式が浮かび上がってきます。

それから「心」の「内面」と「外面」も、一つの「線引き」から生じるものと考えられるかもしれません。文字通り「心」の「内面」は「内」であり、表に出てきて「見えてくる」ものが「外」です。

少し飛躍します。このことは「無意識」と「意識」という概念にも当てはめることができるかもしれません。無意識が「内」、意識が「外」です。

「線引き」のあり方によって「内」と「外」、それぞれ浮かび上がってくるものは様々。

しかし、それはあくまでも「線引き」によって生じてくるもの
それは、いずれにせよ一つの「主体」のある意味主観から生じてくるものではないかと思うのです。

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