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次期国家情報院長官との因縁


太刀川正樹です。

朝鮮戦争休戦記念日の7月27日、韓国ソウルでは次期国家情報院長の人事聴聞会が国会で行われた。情報院長に指名されたのは朴智元氏。同氏は金大中大統領時代の秘書室長や文化観光部長官を歴任した金大中大統領の側近中の側近と言われた人物と知られている。2000年の南北首脳会談では金大中大統領の密使として北朝鮮ピョンヤンを極秘に訪問したり、数回にわたり、北側代表と東南アジア各地で秘密接触していたことでも知られている。南北首脳会談の実現によって金大中氏はノーベル平和賞を受賞した。反面朴智元氏は北側に5億ドルの資金を提供した関連者として獄中生活も経験している。野党の未来統合党の院内代表は「朴氏は敵と内通している人物で国家情報院長となるのは不適切」と反発したが、今日の聴聞会では金大中元大統領の三男で4月の総選挙で民主党国会議員となった金弘傑氏が「(野党がいうように)敵と内通している人物という表現は朴智元内定者に対する侮辱だけではなく、当時南北対話に貢献したすべての人々に対する侮辱である」と強く野党を批判している。
私が朴智元氏と知り合ったのは今から37年前のこと。当時金大中氏が米国に亡命していた際、ニューヨークで韓人商工会会長をしていた朴氏が金大中氏夫妻の世話をしていた時である。当時社会党の土井たか子委員長がニューヨークを訪れ、金大中大統領夫人の李姫ホ女史と面会をアレンジしたが、その面談を人一倍喜んだのが、朴智元氏だった。当時の朴氏はブロードウエイで数店も店を経営していた実業家だったが、同じ全羅南道出身の政治家として金大中氏を尊敬していた。私も時折、マンハッタンの32丁目にあったコリアンレストランで焼き肉をご馳走になったり、寿司カウンターで酒を酌み交わした。当時、朴氏がのちに政治家になるとは想像だにしなかった。金大中氏が帰国後、朴氏も数年後には帰国して、金大中氏の政治活動を手伝った。たしか87年、92年の大統領選挙の時には側近中の側近として常に傍にいたことを記憶している。92年大統領選挙で金泳三氏に敗れた時も傍にいて、非常に落胆した姿も目撃している。97年の大統領選挙では党本部のテレビの前で、金大中氏がマスコミの前に姿を現す前に記者たちと一緒に開票結果を見守っていた時のこと。朴智元氏がトイレに立ったりすると、金大中票が伸び、朴氏が戻ってくると、ライバルの李会昌候補の票が伸びたことから記者たちは朴氏にずっとトイレにいてくれなどと冗談を言っていたことも思い出す。開票結果は世論調査の結果通り、金大中氏が勝利した。朴氏は金大中政権下で、秘書官やスポークスマン、文化観光部長官、秘書室長を歴任した。金大中氏は朴氏をいつも、朴同志(ドンチ)と呼んでいた。朴氏の金大中氏に対する忠誠心は相当なものだった。
私も昨年末、市内の和食レストランで、同じくニューヨーク時代から交流のあったブレークニュースの文日錫代表と一緒に食事を楽しんだ。残念ながら4月15日の国会議員選挙では落選したが、その後もテレビやラジオなどで北朝鮮との関係について発言を続けていた。何よりも2000年の南北首脳会談を実現させた立役者である。同氏は昨年愛妻をガンで亡くしていて、その葬儀にもたまたまソウルに滞在していた私も参列した。愛妻をなくした悲しみは深く、愛妻を哀悼した写真集を出版したほどだった。
朴氏は北朝鮮通といわれているが、実は日本との因縁も深い。二十年前の小渕首相と金大中大統領との歴史的な日韓首脳会談の際から、日本との交流は深く、現在では自民党の二階幹事長との因縁は有名で、朴氏は酒の席では年上の二階氏を「ヒョン二ム」(兄貴)と呼んでいた。朴氏の故郷全羅南道の木浦には共生園と呼ばれる孤児院がある。この孤児院は韓国人の設立者と高知県出身の日本人女性田内千鶴子さんが国境を越えて協力して作った施設で、日韓交流のシンボルとして知られている。数年前に二階幹事長が文在寅大統領を表敬訪問する際に、いち早く朴氏の案内で木浦を訪れて、共生園を訪れて記帳している。その後、二階幹事長の愛妻が亡くなった時も地元和歌山で行われたお別れ会にはわざわざソウルから朴氏が訪れて二階幹事長を慰労している。金大中大統領時代から培ったのは北朝鮮ルートだけでなく、日本との秘密ルートも生きている。
今日の聴聞会の結果、数日以内に朴氏の国家情報院長官就任が正式に発表される。朴氏の就任は北朝鮮だけでなく、日本や中国、ロシアなどにも大きな影響を与えることは確実だ。
以上。。
右真ん中の白いシャツがパクチウオン氏 

右奥は私です。


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