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彼はいつも「大丈夫?」と問う 心配をかけたくなくて、私はいつも 「大丈夫だよ」と答えていた 彼にも自分にも嘘を吐き続けた 彼はもう「大丈夫?」と問わない もう私を気にかけてくれない 「お前は強いから、俺がいなくても平気だよな」 彼の言葉に私は「そうだね」とまた嘘を吐いた
雪が降りだしたと思ったら 急に青空が広がって いつの間にか雪が雨に変わり あちこちから水蒸気が上がっているから 「はっきりしてよ」と 空に向かって言ってみたら 隣できみが笑った 曖昧な態度でわたしを振り回す きみに向けての言葉だとは 夢にも思わないという様子で
ドーナツの穴になりたかったの。 生地から型を抜いて、抜いて、抜いて、捏ねて伸ばして型を抜いて、抜いて そうして残った、たったひとつのドーナツの穴。 それを食べられるのはひとりだけだから。手に入れた日は自分が特別だって思えて。 そんな風に、誰かの特別になりたかったのに、ね。
まさかわたしの中に、ここまで強烈で、醜くおぞましい感情が存在しているなんて。 明るく誠実で、どんなことでも楽しもうという矜持が、揺らぐ日が来るなんて。 この感情の名前は聞いたことがある。嫉妬だ。わたしは今日、生まれて初めて嫉妬に出会った。
ハンカチに 自分の名前を刺繍するように きみの心にも わたしの名前を刺繍できたら 一日の中で二秒くらいは わたしを思い出してくれるのかな 二秒でいい 二秒でいい、のに
運転席のあのひとを 横目でずっと盗み見ている そして祈っている 赤信号で停まるたび 盗み見をやめなくてはいけないから どうかこの先の信号も その次の信号も タイミングよく青にかわってくれ、と でもそうするとすぐに到着して すぐに別れの挨拶をしなくてはならないから どうかこの道が 不思議な力で数キロくらい伸びてくれ、と わたしはそんなジレンマに踊らされ 途方に暮れながら気付くのだ これが恋というものか
あなたは随分、わたしを大事に扱うのね 高価な陶器でも触るよう丁寧に、慎重に、細心の注意を払って、 まるでフラジールのラベルが貼られているみたいに 大事にしてくれるのは嬉しいの でももう少し雑に扱っても構わない なんなら、そうだ、うなじをがりりと噛んだっていい
胸の中で育てた絶望に頬ずりして 火照りを鎮める 太陽を手に入れようだなんて そりゃ無理な話だったんだ 太陽のそばに居られるだけで 充分だったはずなのに いつからかわたしは贅沢になった だからどうか絶望よ、 その冷たさで わたしの目を覚ましておくれ
身体中に開いた 数え切れないくらいの傷口に ドクターフィッシュを住まわせて 負った傷の原因を 全部丸ごと食べてもらえたらいいのに
わたしの下唇はいつも荒れていて、 それを見る度きみは「リップ塗ったら?」と呆れた顔をして、 ついにはどこにでも売っている安いリップクリームを買って来てくれたけれど。 きみは知らないの。 わたしの下唇が荒れている理由を。 きみがあの子と一緒にいるのを見かける度、その悔しさを、唇を噛んだ痛みで紛らしているんだよ。
その報告を受けたとき、わたしは人目も憚らず飛び跳ねて大喜びした。 長い時間を一緒に過ごしてきた幼馴染みと、職場で一番仲が良い友だちという、わたしの人生においてなくてはならない大切なふたりが、付き合い始めたのだ。飛び跳ねたくもなる。 「おめでとう、お幸せにね」 張り上げた声は、風船みたいに膨らんで、上擦っている。 感情が溢れそうな声に、ふたりは目を丸くしたあと顔を見合わせ、フフと笑った。とても幸せそうに。とてもそっくりな笑顔で。まるでわたしには見えない、ふたりだけ
ねえ、どうしよう 心の空洞を埋められるだけのものが まだ見つからないの 詰められそうなものは 何でも詰めてみようと 試しているのだけれどね 例えば庭の落ち葉も詰めたし 木工用ボンドも流し込んだ 角砂糖もあるだけ詰めたのよ でもだめみたい あなたがいい あなたが恋しい
この楽しい時間が、 砂が落ち切ったときに終わるのなら。 私は全力で、それを阻止したい。 彼の目を盗んで、 砂時計をひっくり返し、 この時間を永遠にしたい。 たとえ盗人だと咎められようと、 今、この瞬間、 彼の時間を私のものにできるなら。 何度だって盗みを犯すよ、なんて。
空に浮かぶあの きらきら輝く大きな光まで ジャンプして 頬ずりしてこよう わたしたちならできるよ そして地上に戻って来たら ふたりで頬ずりして 「よくできたね」って称え合おうよ