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安らげずとも目を瞑るという作業。

今日、劇場入りをした。久しぶりの劇場は特に何も語ることはなく、そこに在った。今までと変わらず佇むようにも見えるが、それを見る私の目が、この濁りから解放されることはないだろうということはわかった。

とんぼが飛びはじめた。嬉しかった。

難しい話だ。

企画や俳優を行なう上で、様々なかたちで発信するという行為は、私の意志とは関係なく(前向きであれ後ろ向きであれ)行わなければならないと認識している。これを考えると、現在ノートに書き連ねているような、世間一般的に暗い話題にカテゴライズされるものを書くことは、人格や雰囲気といったものが多分に作用する世界においてなるべく回避したいところであるものの、最近はすっかり諦めてしまった。

あらかじめ断っておくが、私が今携わっている仕事については、私は誠心誠意を持ってこの仕事をやりとげる気持ちでいっぱいであり、豊かな面々と共に創作に向き合える時間を喜ばしく想っている。

降板間もない頃。

ここに書かれているのは非常に私的な言葉の羅列である。それでは何故そんなものを公開するのかと聞かれるかもしれないが、それは分かってもらいたいという私の欲に他ならない。分かってもらいたいというのは、共感をしてほしい訳ではない。私は不躾な共感、同情とも呼ばれるであろうそれらが、如何に残酷かを知っている。

大体の物事は自分の予期せぬタイミングで起こる。

自分の精神的不調も含まれるが、振り回されることに疲れている。今に始まったことではないし、付き合いたくなくてもまとわりついてくるものばかりなのだから、こうしてグチグチと言葉に落とし込み、ストレスを和らげるのだ。私からすれば、もう何の言葉も送る気がない。私も困っている。そちらも勝手に困っていればよい。これ以上でも、以下でもない。

猿倉の案山子。奥に見える木の上にボールを吊るしてもらい、バッティング練習なぞしていた。枝に吊るされたブランコもある。

先日、旧い友人と電話をした。

彼は私の状態を「病んでる」という言葉で表し、心配の念を向けてくれたのだが、私はその表現へ猛烈に反発する私の心を認識した。端から見れば「病んでる」状態なのだろうが、そのような軽薄な表現に落とし込まれることは、あまりにも悲しいことだった。無論、先も述べた通り、彼の私を心配する気持ちは伝わっている。だからこそ、悲しいのだ。猛烈な反発心から怒り狂っては、もしかしたらこの関係性が持続出来ないかもしれないという心配を抱えて「病んでるよ。」と私は応えた。しかしながら、果たしてこれは誠実な返答だったろうか。私は彼との友情を、こんなことで断ち切れてしまう軽薄なものだと思ってしまったから、自身への誠実さを捨てて、平然と受け答えしたのではないだろうか。彼への誠実さも捨ててしまったのではないだろうか。

いつぞや頂いたスタバのチケットが切れそうになり、駆込み消費。

そろそろ寝なければならない。
さあ、明日も頑張ろう!

せば、また。

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