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スラムダンク

『スラムダンク』この言葉を聞いて何を思い浮かべますか?

この質問をしたら世界では殆どの人が『強い(強烈な)ダンクシュート』と答えると思う。
【でも】
日本でこの質問をしたら90%以上の人が『漫画』のスラムダンクを思い浮かべるのではないか。データがある訳ではないからあくまで俺の推測だが実際にデータをとればこれに近い数字が出ると思う。

と書いておきながらスラムダンクは世界的漫画でもあるので『海外で聞いても漫画って答えるんじゃないか?』と、ちょっとビビって『スラムダンク 世界』と調べてみたら…

殆どの検索結果がこれでした。笑

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スラムダンクのエンディング曲 『世界が終わるまでは…』WANDSの代表曲だ。今の3.40代なら一度はカラオケで大合唱した事ある曲ではないだろうか?

そんな国民的漫画『スラムダンク』
週刊少年ジャンプで1990年から1996年にかけて全276話にわたり連載、アニメ化やゲーム化もされた。
今41歳の俺がバスケを始めたのが中学からで、それが1993年。スラムダンクの連載真っ最中の頃である。
全国民(特に少年少女達)のバスケ熱を上げて、その結果全国のバスケ部員がどんどん増えていった。

そんなスラムダンクに影響されてバスケットを始めた人達を俺は勝手に『スラムダンクチルドレン』と呼んでいる。

実際に俺が通っていた全校生徒300人ちょっとの中学でも男子バスケ部だけで約50人、男女比率が半々なら3分の1がバスケ部だった事になる。
三重の片田舎の中学までそこまでの影響を与えていた漫画、そういえばリアルタイムでスラムダンク旋風を経験していない世代には伝わりやすいのではないか。これは決して『スラムダンクのリアル世代マウント』を取りたくて色々書いている訳ではない。たまたま俺らがその時代に生まれただけで何も偉くない。

ただ1つ自慢できるのは
俺たちは毎週ジャンプの中で桜木達と一緒に成長していった。
連載中に身長も伸びたし
湘北メンバーと一緒にバスケも上手くなっていった。

という具合にスラムダンクの話をし出したら止まらない。
そして連載が終わってから20年以上経つ2022年にスラムダンクの映画が公開されることになった。

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もうすぐ公開1ヶ月前になるがまだ内容はベールに包まれたまま。それがよりファンの妄想を掻き立てる。

『桜木が坊主だしジョーダン1だからあの試合とあの試合しかないよな〜』

このポスターが公開された時もみんなで話し合った。
そんなスラムダンク熱がまた全国で上がりつつある2022年、話は夏まで遡る。

仕事終わり電車に乗っていると
『おー!イセ!めちゃくちゃいいタイミング!ちょうど今日イセに連絡しようとしててん!』
と知人のSさんが話かけてきた。赤くなった顔と少し高めのテンションで飲み会の帰りだなとすぐに分かった。
『ちょっと内容は声に出して言われへんからこれ見て』
とSさんはスマホの画面を差し出した。

そこには『SLAM DUNK』のアルファベットが並んでいた

スマホの画面を少しスクロールした。普段鈍感な俺もとんでもないイベントが企画されているとすぐに気付いた。
『まだ企画段階やから確定ではないけど、籠球会をブッキングしたいと思ってる!』
普段なら【メンバーに相談して再度連絡します!】と返事するのだが、興奮が瞬間で沸点に到達し食い気味に

『やります!!!絶対に出ます!!!』

とメンバーの確認もなしに出演OKを即答してしまった。
でもメンバー全員、誰が俺の立場でもこう言っていたと思う。
そこからは順調に話が進みイベント開催も決まり、籠球会への正式オファーもいただいた。
とんでもないイベントの全貌はこれだった。

日本一高いバスケットコートでパフォーマンス。
NBAの時もそうだったが『日本初』や『日本一』は大好物なのです。
日程が決まればそれに向けての練習と調整。コロナで3年間イベントが皆無状態で、今年の京都大作戦の出演を除けば久しぶりのイベント出演。

あっという間に本番当日を迎えた。
会場に着いてから知ったがメンバー全員あべのハルカスの展望台に上がったことがなかった。笑
まずメンバーのテンションを上げたのが16Fの展望台への乗り換え場所にある窓に現れた湘北メンバー。

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とにかくデカくてインパクトがヤバい。
森重寛の初登場ぐらいインパクトがあった(ちょいちょいスラムダンクネタ入れていきます)
リハーサルの為にコートのある58Fへ。

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ビルも空間も人の手によって造られたものだが、何かとてつもない大自然の風景を見た感覚にも近かった。
まさに『天空のコート』。名に相応しい場所でした。

『凄い』と同時に『ここでパフォーマンスするのか』という『緊張』も同時に生まれた。
リハーサルを終えて、本番MCを担当してくれるFM802のDJ飯室大吾さん、ゲストの麒麟の田村さんと合流し打ち合わせ。それが終わればすぐ本番。

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めちゃくちゃ楽しめた。
見に来てくれてた人達にも楽しんでもらえたと思う。

楽しませる為にはまず自分が楽しむこと

中学生の時に見たバスケのビデオでマジックジョンソンが言ってた言葉。それからずっと意識していること。
パフォーマンスは2部制だったので2回、他にもシュートチャレンジやミニゲーム、フリースタイルのクリニックも開催した。本当は麒麟の田村さんとFM802の飯室さんは1部のみの参加のはずだった。1部が楽しかったから2部も参加するという奇跡が起こった。2人ともプロ中のプロ、普通に考えたらあり得ない事だがそれだけいいイベントだったという事をこのエピソードが物語っている。

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クリニックやミニゲームに参加できるのは予め抽選で当選した15組の親子のみ。残念ながら当選しなかったけど、知人友人その子供達も沢山見に来てくれていた。
イベント終わりで仲良くしてもらってる家族が声掛けてくれた。

パフォーマンス見て、帰り道に『ボール買って!』てねだられてるんです

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これほど嬉しい事はない。
自分達のパフォーマンスを見て『ボールが欲しい』『バスケやってみたい』という【キッカケ】をつくることができた。
バスケ始めてくれたら嬉しいし、夢中になってくれたらより嬉しい。でもバスケットをやってほしいという願いより

やりたいと思った事はとりあえずやってみる
楽しいと思ったら続けてみる

これをバスケを通して伝える事ができたら1番最高。
そしてもう一つ嬉しかった事が、メンバーのKANとまだ一緒にスクールでバスケを教えていた時代の教え子が見に来てくれていた。

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7歳、9歳の子が17歳と19歳。下の子に関してはまだ産まれたばかりで抱っこさせてもらった記憶がある。
道端ですれ違っても確実に分からない。この日もお母さんが話しかけてくれなかったら分からなかったと思う。
(2万本シュート打ってミドルシュートが入るようになった桜木を初めて見た海南メンバーぐらいビックリした)

こうやってコーチと生徒という関係から10年以上経つのに情報をキャッチして実際に会場まで見に来てくれたのは本当に嬉しかった。

【スラムダンク】のイベントに出れたという嬉しさもあったけど、イベントが終わってみたら【バスケットを通して最高の人生を送っている】と少し大袈裟かもしれないがそんな気持ちになった。
数日前の無茶振りの依頼にも関わらず大阪まで飛んできてくれたカメラマンのミド君、籠球会のプレイヤーメンバーでスタッフとして参加してくれたマサキ、見に来てくれた人、来れなかったけど気にかけてくれた人、そういう人達が周りにいるだけで幸せな事だ。

ちょっと思い出に浸りすぎて試合中に泣いてしまったゴリみたいになってしまったので話を戻そう。
今回イベントで使用した58Fにあるコート、なんと来年の1月9日まで一般開放されるのだ。

展望台へのチケット購入は必要だがコート利用は無料(詳細は貼り付けてあるHPまで)
他にもハルカスの至る所にスラムダンクの装飾が…

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全部写真撮ったけど、全部載せるとこれから行く人達の楽しみが減るのでとりあえずミッチーの柱だけ。
俺は籠球会結成(17年前)から14番を付けている。
もちろん三井寿を意識をしての事だ。
自分で言うのもなんだが思春期にグレた事がないので『グレ』への憧れ『グレからのカムバック』への憧れが強い。
そして三井寿と母の誕生日が5月22日で同じという事で背番号を14番に決めた。
こういう風に俺だけじゃなくてスラムダンクを読んだ一人一人に何かしらのエピソードが絶対にある。それを聞くのも大好きだ。

まとまりのない長い記事になってしまったが、それだけ出来事の多い1日だった。
『THE FIRST SLAM DUNK』映画公開の12月3日(土)まであと1ヶ月ちょっと。
毎日ワクワクしながら過ごしている。
何回映画館行くのかな。笑

スラムダンク大好きで悪いか

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