自由の一丁上がり
毎日ノートに投稿するという個人的な義務に深い理由はないのだけれど、一度決めてしまったことなのでやるしかない。社会の信頼を活用して安心という価値を買う以上は、ある程度の生産性を生み出し続けることは交換条件であるし、無人島で自給自足の生活を選んでみると自分の命を過酷な自然に預けることが運命づけられる。つまり社会に生きることとは社会との様々な約束を果たしていくことが要件だ。自分との小さな約束を果たせない者が、つまり自分への信頼を積み上げられない人間が、どうやって他人との約束へ忠実になれるだろうか。自分の行動原理を決めて言行一致させることは、人生の方向性を定めるために不可欠なことなのだろうと多少の実感をもって感じている。自分が大切だと思うことを拾うということは、つまり大切ではないものを捨てることである。例えばソニーに就職することは、世界中の他のどの会社にも就職しないことを同時に意味する。土曜の夕方に渋谷に行くことは、地球上の他のどこへも行かないことを決定付ける。表に思いをめぐらせるのと同じように裏を想像すること自体はナンセンスなことだが、つまりそれは直感というパーソナルな導きを前にすれば無用な思案なのであるが、ただ本棚を持たないことには書籍たちの秩序は作れない。もちろん、境界線があることで楽に生きることもできれば、ないがゆえの曖昧な自由に助けられることもある。しかし、人生という途方もなく時間と空間の広いキャンバスの上を歩くうえ、しかも最期の死際に人生に何の意味も持たないことを悟るかもしれないなかで、やはりそれなりの制約をつけたほうが生き易い場合が多いのではないか。生き易いというのは、楽しいとも、気楽とも、簡単とも言えるかもしれない。もっとかいつまむと、いわゆる直感に従うことかもしれない。最初から最後まで意味を持たないキャンバスだから、無心で直感に導かれてしまえばいい。