バンジージャンプの前で哲学に暮れる

いつもなら目覚ましの音が気持ちよく聴こえるのに、今朝のアラームは耳に痛く響いた。鼻から深く吸った空気が体内のどこを移動しているかおおまかに分かるぐらい、冷気が澄んでいる。いつもなら5時に起きてから、布団に篭ったまま大音量の音楽に気持ちを合わせていくが、今日は意識がグデグデする。二度寝を貪ろうが、誰の知ったことでもない。ただひたすらに、自分との約束を反故にできないという小さな意地が、部屋の暗闇に頼りない淡い光を洩らす。仕事の合間にどのように息抜きをすればいいのかさっぱり分からなかった。本当に何も浮かばないのだ。淹れたてのコーヒーの香りを嗅ぐというのが一般的に悦びになるということを聞き知ってはいるけれど、どうしても主観で視ることはできないし、自分の関心に気に留まるものなのか、あるいはべきものなのかについて冷静な調査が考察が必要だ。といわんばかりに。そう耽っていると、僕の閲覧履歴を解析したインスタグラムのアルゴリズムは何とも無しに、愛らしい猫や犬の動画を理路整然と大量に陳列してくれている。自分の個人的で細やかな幸福などは自分を含めた誰にとっても重要ではないという想いは、徐々に変わってきたのかもしれない。他人の約束を踏み潰してまで自分との約束を果たす。今までできなかったことだ。というのは半分は本当で、半分は嘘。さて、そろそろ自分に言い訳をするのは苦しいな、というところまで目が覚めてきたら、布団にくるまれたままに腕立て伏せをする。腹筋に移るときには足で毛布を蹴飛ばし、背筋に移るときにはジワリとした微熱が首筋を包む。壁寄りの静止スクアットを3分きっちりと済ませたら、ささっとナイキのトレーニングアプリが勧めてくる5分の筋トレをする。このときには暖房の風がむしろ鬱陶しい。トレーニングを嫌に思うことは少ないけれど、ランニングウェアに着替える時がとても憂鬱だ。化学繊維の素材が夜通しの冷気を吸っている。すぐに馴染むものだが、どうでもよいと思っていることにどうにかさせられていることが悔しいということ自体がどうでもいいのではあるけれど。文章に認めると大袈裟に聞こえるだけで、実際のところは大した気も寄せていない。自宅の扉を開ける瞬間に、外廊下を吹き付ける隙間風がドアをさらい、僕一人が通れるに十分以上のスペースを少しぶっきらぼうに与えてくれる。「僕の力で開けてあげるよ」とは優しいけれど、いつも乱暴なのも愛らしい。エレベーターを降り、エントランスを出る。目の前には片方三車線の忙しい国道が意識を奪う。5:45で外はまだ暗いのに、車内にはまだ荷を入れていなくてスカスカで恥ずかしそうな白い軽トラックや、文字通りビュルルンと音をまくしたてる大型トラックが、早朝なのにすでに忙しない。ただ、その運転手にとってはすでになのか、まだ、なのかはよく分からない。僕がいつも走り始める地点までは300メートル。そこから始めないと、折り返して戻ってきたときにちょうど5キロにならないのだ。国道の脇を歩くときは、できるだけ国道のことを考えない。左に曲がると木が鬱蒼と生え茂る不思議な住宅街に抜ける道。さあ、走り始める地点にそろそろ着いた。ここから走るのを始めるのはあと何日残っているのだろうか。今日も、バンジージャンプの下に広がる雄大な谷底を見やりながら、淹れたてのコーヒーが温まるのを待つ。ステンレス製の背もたれに両手を釘打ちされ、哲学に暮れる。