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老子に学ぶ幸福論 final ~高みへ登らないキャリア論!?~

老子に学ぶ幸福論第三段。
前回は、貢献をしないのがよい貢献なのかもしれないという切り口で老子を紹介しました。

今回は、「キャリアの積み方」を老子に聞いてみようと思います。

参考になる2章を今回は紹介します。

仕事をやり遂げたらすぐに身を引く?

<書き下し分>
持(じ)して之を盈(み)たすは、其の已(や)むるに如(し)かず。
揣(し)して之を鋭くするは、長く保つ可(べ)からず。
金玉(きんぎょく)の堂に満つるは、之を能(よ)く守る莫(な)し。
富貴にして驕(おご)れば、自ら其の咎(とが)を遺(のこ)す。
功遂げて身退(しりぞ)くは、天の道なり。
<日本語訳>
いつまでも器を一杯にして満たし続けようとするのは、やめたほうがよい。
鍛えに鍛えてぎりぎりまで刃先を鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。
黄金や宝石が家中一杯あるというのは、とても守りきれるものではない。
財産と地位ができて、頭が高くなると、自分で破滅を招くことになる。
仕事をやり遂げたなら、さっさと身をひいて隠退する。それが天の道というものだ。

競うことなかれ

<書き下し分>
上善は水の如し、水は善く万物を利して
而(しか)も争わず。
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。
故に道に幾(ちか)し。
居には地を善(よ)しとし、
心には淵(えん)なるを善しとし、
与(まじわり)には仁を善しとし、
言には信を善しとし、
正(政)には治を善しとし、
事には能を善しとし、
動には時を善しとす。
夫(そ)れ唯(ただ)争わず、
故に尤(とが)め無し。
<日本語訳>
最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。
水は万物の生長をりっぱに助け、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。
そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。
住居としては土地の上が善く、心のはたらきとしては奥深いのが善く、
人との交わりでは情け深いのが善く、ことばでは信義を守るのが善く、
政治としては平和に治まるのが善く、事業としては有能なのが善く、
行動としては時にかなっているのが善い。
すべて、水を模範として争わないでいるのが、善いのだ。
そもそも、競い争うようなことをしないからこそ、まちがいもないのだ。

具体的な水のような働きとは?

「争わずに、万物の生長を助ける」と言われても、具体的にはどうすればいいのでしょうか。難しい問いですが、一つ感覚として参考になるかもしれないブログを見つけました。

このタイトルの答えだけ抜粋すると

「救世主分野の言葉を話し、停滞分野で働く人が、救世主分野の人に向けて発信すること」

とのこと。

詳しくは、要約が面倒なのでブログを読んで欲しいのですが(笑)、要は、メタ視点で見た時に適切だと思われるように人材の流動をよく促しましょうということが言われています。一人ひとりが、このブログの視点のように、自分が、「国」なのか「世界」なのか人それぞれの愛着の程度によるところがあるとは思いますが、ともかく「全体」を構成する一部という意識も持ちながらキャリアを選択するようになると、過剰な競争が抑えられ、全体の生長を助けられるようになるかもしれません。

論語から見た老子。一つの違いは認識の広さ。

論語と老子は中国の代表的な古典です。2000年以上の中国の長い歴史の中で、孔孟の儒教が表向きの正統的な思想であったのに対して、老荘の思想はその裏面をささえるものとしてあり続けました。

論語にならうと、紳士になります。服装が整い、世間のきまりごとをよく守り、勤勉で、几帳面。自分だけがそうなのではなく、人にもそうあるようにすすめ、みんなきちんとすることで世の中がよくなると信じています。

老子にならおうと反対のタイプになります。服装など意に介せず、時にはだらしなくもみえますが、それだけ純朴で裸の人間味があります。世間のきまりごとや仕事のこともあまり気に留めず、時にはずぼらもしますが、別に怠け者でも拗ね者でもなく、大事なところははずしません。

こちらのほうから前の人物をみると、いかにもこせこせした小人物で、こんな人物が多くなると世の中はだめになると考えますが、前の人物のほうからこちらをみると、調子はずれの不安定な人物で、社会の秩序を乱すことになると考えます。

孔孟も老荘も平和で安らかな人間の幸福を追求した点では変わりがありません。
孔孟の方は、高い道義的な理想をかかげて人々をそれに向かわせ、秩序を確立し、安定した世界を築こうとしました。
老荘の方は、あるがままの本来の自然な人間にたちかえることによって、世界の争乱は静まり、人々の安定した暮らしが復活すると考えました。

そこで、孔孟の思想が政治や社会に向かってまっすぐ強く進んだのに対して、老荘では、むしろ個人の本来のありかたを追求し、その自然性を訴えることに注力がそそがれました。孔孟の側でももちろん個人の人格が問題にされますが、それはあくまで社会的人間としての人格でした。

この考え方の違いが生まれた理由の一つに認識の範囲の広さの違いがあるように思います。老荘の側でも、とくに老子においては政治的な主張は多いですが、それは「無為自然」という政治の否定にも連なるような主張でした。老荘の人々は、孔孟の人々のように政治を社会的道義性のわくの中だけで考えているのはだめだと考え、それを広い自然世界の中に開放してとらえようとしました。人間だけで暮らしているのではない。その背後には大きな自然のひろがりがあり、人間もその一部である。そのことに気づくと、社会的人間としての枠でしか考えようとしない孔孟の限界が明らかになります。こうして、「自然に帰れ」という老荘の思想が中国で起こることになりました。

老子的考え方の需要の高まり

各国で気候変動への認識に変化が起きています。世界で地方議会による「気候非常事態宣言」運動が急速に広がり、その数は300を超えているようです。仮に異常な気候変動が人間によるものだとした場合、老子的な考え方は気候変動を抑える一助になるのではと考えました。
また、「好きなことをしよう」という風潮も強い最近です。この考え方も「自然に帰れ」に近い考え方ではないでしょうか。

パラダイムが変わりつつあるように感じます。次の時代の思想をよく認識して、順応し、創造していくのに、老子は参考になるのではないでしょうか。ぜひ一度手にとってみてもらえたらと思います。

P.S.老子の根幹である道の説明ができなかった。わかりやすい部分だけ引っ張ってきてしまって反省。。。

参考:金谷治著 老子


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