大事なことは続けること
10月のBリーグ開幕に合わせて札幌に帰りましたが、あれから1年経った感覚で飛行機に乗りました。
それぐらい濃密な3ヶ月(その前から)だったんだろうなと感じています。
今の仕事を始めてから、インプットできていない自分に焦りというか、不安を感じていました。
年齢のせいもあるかもしれませんが、職場の住所と電話番号が出てこない。使用頻度もあるのかもしれないけれど、それぐらい頭に入れる機会がなかった。
それと同時に以前の職場にはすごくお世話になって、愛着を感じていたけど、自分が思っていた以上に愛着があったんだなと思いました。
働いていた当時、特に最後はいろんなストレスを感じて思い悩んでいることが多かったけど、ありがたい環境だった。
わかってるつもりだったけど、やっぱり離れてみたいとわからないことや気づかないことがあるんだなと思いました。
そういう意味では、環境を変えてみることで得られることがあるんだなとも。
当時の職場の会長は、大学生で就職が決まったけど、体調を崩して内定を辞退した僕をすごく心配してくれていました。
「卒業後はどうするんだ?」
結果的に、
「うちで働かないか?」
と言ってもらうのですが、
「俺が面倒をみる。その代わり、俺のために一生懸命働け!」
とよく豪快にお酒を飲みながら、話していました。
その方は癖もあり、界隈からは嫌われていたのですが、従業員への愛情は人一倍だった。
飲むたびに
「預かっている以上は、お前の面倒をちゃんとみないとお前の親父さんに申し訳がないからな」
当時はその話を聞きながら、
「時代錯誤だなー」
と思ったりもしましたが、本当にあんなに従業員の面倒を見てくれる人は、今時いない。
それは離れてみてすごく感じました。
その代わり理不尽な頼みもたくさんありましたが、僕自身も
「この人が言うならやらないといけない」
と思える人だった。
転職してみて、そんなことを考えることがすごくよくあります。
「この人が言うなら……」
「この人がやってくれるから」
知らぬ間にそんな関係値を大切にしていたし、
今仕事をしていても
「このコーチのためなら」
「この選手のためなら」
「このスタッフのためなら」
「この人のためなら」
振り返ると、そんな基準で動いていた自分に気づきました。
離れてみて気づくこと。
それは今年3月、佐賀の宮永さんが僕にそっと言ったことにも繋がりました。
アルティーリ千葉との大事な試合を僕はロッカールームまで密着させてもらいました。
結果的に試合内容は上々でしたが、佐賀は連敗。
正直ロッカーの空気感は良かったとは言えなかった。
それでもやらせてもらっている以上はカメラを回す。それが僕の責任でした。
そんな僕に試合後、宮永さんが
「ここからは使わないでね。実際、負けないとわからないこともあるので、大丈夫です。彼らもわかったはずだし、もう大丈夫」
この映像は使われていません。
大丈夫な根拠が何だったのかは僕にもわかりませんが、選手経験なのか、コーチとしての経験なのか、宮永さんには勝つ以上に大事なことがあの3月の試合にあったのだと思います。
そして、こう言いました。
「絶対に昇格します。よろしくお願いします」
そこまで言われたのなら、その瞬間に僕はいないといけない。
ここに関しては何度も言っていますが、
「宮永さんがやるというのなら」
そういう感情にさせてもらい、自費で佐賀に飛びました。
結果は皆さんがご存知の通り、B2優勝、B1昇格。
その瞬間をご一緒させてもらいました。
そんな僕は取材やインタビューのチョイスを結構色々言われることはあります。
それは自分でも理解しています。
しかし、それ以上に僕にしか表現できないストーリーがあるかどうか。
そこが僕の判断基準で、そこをぶらさずにこの一年やってきました。
もちろん、仲がいいからこそいろんな話を聞けますが、仲がいいのはそれまでに積み上げてきたものの上に成り立っていることは間違いありません。
その瞬間の最大風速を出したいのではなく、
その時が最大風速だと思ったら、そこから先にもっとすごい瞬間が待っていた。
そんなストーリーを思い描いて取材をしています。
その取材がゴールではなく、常にそこから先をイメージして、その取材の企画を立てています。
佐賀で言うのなら、西川くんや宮永さんが入口だったことは間違いないですが、入り口が彼らだったからこそ、今は太輝、りょうたやあっちゃん、葛原くんなどに繋がっています。
渋谷のユースで言えば、きっかけは松岡亮太ディレクターであり、コーチ陣であり、そこに松下湊人が現れた。
そのセレクトの軸にあるのは
「この人がいるから」
それは間違いないなと感じているし、そういう積み重ねの先で会うべき人にちゃんと会えるのだと思っています。
だからこそ、自分自身もその
「この人が取材をしてくれるなら」
「この人が取材をしてくれたから」
という存在になれたかどうか。
結局は人と人とのつながりであり、自分の芯を大切にしながら、人を大切にしてきたか。
そこを大事にしてやり続けていれば
ちゃんとわかってくれる人は現れるし、
自分自身も来年で36歳
わかってあげられる人間になりたいなと思いました。
それを踏まえると、振り返ってみて気づいたのは、インプットじゃなくてアウトプットする立ち位置になったんだなということ。
もちろん、両方を常に意識して、いい循環を作らないといけないけど、自分はそこまで器用じゃない。
そして、自分の武器で戦うこと。
僕はずっと隙間産業的な人間だと思っていました。都合いい場所に収まるというと聞こえが悪いかもしれませんが、
ここにいてくれるといいな
という願望に向き合う。
それこそさっき書いた
「この人が言うなら、その現場には行きますよ」
という決断。
それをやり続けてきた結果、自分だけの武器を得れたように思います。
最近、自分の武器って大事だなって思っていて
それこそ今はゴルフ業界時代にインプットしてきた宮里藍プロのお話や湯原信光プロから学んだことを、バスケ選手に話すことが多くあります。
結局、ちゃんと繋がるんだなー。
「バスケでお仕事したいです」
という相談には絶対にこう言います。
「スタイルを決めて、行ける限り現場に行くこと、たくさんの人に顔を覚えてもらって、質問すること。そのためのサポートは全力でします」
結局、続けられた人に出会ったことはありません。
なんでそれを言うのかというと、
バスケの現場にいる人たちがそもそもそうやってプロになった人たちだからです。
人生をかけて、バスケに向き合ってきた人たちを相手に、都合のいいときだけお仕事くださいは通用しないし、失礼にあたる
その人たちにとって
「この人なら」
という存在になれるかどうか。
それは知識量じゃないよねって僕は思います。
単純にそれぐらいの情熱で向き合ってくれたらうれしいよねって。
それこそダブドリメンバーはみんなそんな存在です。
トミさんや元さんは現場の回し方、作り方、撮影、デザインに関しての追求がすごいし、れおさんとマササさんのインタビュー。その時にインタビューをされている選手やコーチの表情は本当に楽しそうです。
他のカメラマンもプロフェッショナル。
少し前に僕はうまくいかなかったらときに
「自分だけが劣っている」
「自分がちゃんと現場を作らないと」
と思っていました。
その時にトミさんが
「みやもんは謝りすぎだよ。みやもんは悪くないんだから」
と言ってくれ、いつも
「編集長、頑張ってんね!ちゃんと休みなよ!」
と言ってくれた。
そういう存在に出会えたのも、自分にとっては財産であり、逆にもっと頑張らないといけないなと感じたのも今年だったし、印刷本体の方々も色んなアイディアを出してくれたり、相談に乗ってくれるようになった。「今日中にやり切りましょう!」と言ってくれて、遅くまで一緒に原稿を待って、作業をしてくれた人もいました。すごく嬉しかった。
それらも踏まえて、やっぱり
大事なことはやり続けること
と言いつつも、現実も見なくてはいけない。
自分が入ってダブドリが本当によりよくなっているのか。現状、答えはNOです。
来年は本格的にバスケに関わって3年目。
ありがたいことにいろんなオファーもいただけるようになりました。
形にはなってないし、なるかもわからないけど、いただいているオファーもあります。
来年は勝負の年。
3年で結果を残せなかったら、ずるずるやろうって気持ちは元々なかったので、自分にとってはラストイヤーの覚悟で頑張ります。
改めまして
今年一年、お世話になった皆様。
本当にありがとうございました。
多くのサポートに感謝しています。
そして、コーチ、選手、関係者の皆さん。
色々教えてもらい、話を聞かせてもらい、時にはズケズケ入り込んでしまい、ご迷惑もかけたと思います。
本当に感謝しています。
少しでも日本のバスケットボールがよりよくなるために、微力ですがもう少し頑張らせていただくので、お力をお借りできればと思います。
ありがとうございました!
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