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あまり仏教に関心はなかった

かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
ト占祭祀つとめとす

悲しいことに世間の人々は
日時は縁起の良し悪しを選んで行事をし
さまざまな神さまを崇めつつ
占いや呪いや祭祀に努め励んでいる

親鸞聖人『正像末和讃』

はじめての方は
https://note.com/masaan_01/n/ncc4344d74ea9

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この記事で「あまり仏教に関心はありませんでした。」について書きます。

突然ですが、「私は仏教徒です!!」と声高らかに宣言される方はいらっしゃいますか?私は僧侶ですので、高らかに宣言せずとも服装で理解していただけるかと思いますが、少なくとも私の周りに仏教徒と声高らかに宣言する者はおりません。しかし、実家に仏壇はあるし、葬儀というとだいたい仏式です。結婚式はというと、人前式かチャペルではないでしょうか? 初詣は?七五三は?ハロウィンは?クリスマスは?吉日?凶日?丑の刻?
このように日本人というのは何かにつけてイベントが好きなのか。それとも、ある意味宗教に熱心なのか。いずれにせよ、こんな多彩な国はありません。ドイツの社会学者マックスウェーバーは日本を「呪詛の国」といいました。

どうなんだい?

小学生の頃、毎朝仏壇に手を合わせていた祖父。経本は開いても、文字を見ることはなく、視線はご本尊阿弥陀如来に向けられていた。そんな祖父のお経目覚ましによって起こされていた私は、気づけば「門前の小僧習わぬ経を読む」でした。

熱心な門徒(信者)だったのかと思いきや、祖父にお経の意味を聞いても「知らん」と一言。
「知らんのかーぃ」と思いつつ、「じゃあ何で毎日拝んでるん?」と聞いたら「親がそうしてたから」という。
私は疑問に思った。「お経とはそうゆうものなのか?」
更に、法事の際、叔父にお経の意味を聞いてみたが「なんやろな、意味わからんからありがたいんちゃう?」と。

この時、お経とは「意味はわからないが、親や先祖がしていたからするもの」「わからないものは、ありがたい」という間違った認識をするようになりました。

お経目覚ましが終わり、朝食を済ませ、TVをみると朝の占い。自分の星座や血液型が1位になったら嬉しい経験、、、ありませんか?
朝から運勢を決められ、それに対し一喜一憂していた少年時代。(かなりピュアだった)

更に、あの頃ノストラダムスの大予言が流行っていた。200X年、地球が滅ぶという大人気アニメ「北◯の拳」を彷彿とさせるようなアレ。
結局、滅びはしませんでしたが、固唾を飲んでTV観てました。

紐解く

あまり仏教に関心がないというか、あの頃は仏教や宗教を知る機会がまずなかったように思います。周りに熱心な宗教家がいた訳でもないし、宗教の授業が学校にあった訳でもない。教えは二の次で、とりあえず「唱えていればそれでよい」という。私が思うに、これらの原因は日常において、宗教的教養がなかったからではないでしょうか。

それは何を意味するのかというと
仏教を宗教としてではなく、習慣として認識していた」という事です。

実は、世界三大宗教と言われるキリスト教やイスラム教も同じく宗教としてではなく、習慣として位置づけている人はいます。
私は、イスラム教徒の学生さん達と話す機会がありましたが、「毎日5回のお祈りは大変ですね」と聞くと「神様のため」というより「生まれた時からみんなやってるから」と言われ唖然としました。(私とお経の関係みたい)

思えば三大宗教がはじまってから1000年以上も経っている訳ですから宗教→文化→伝統→日常となるのは無理もない話です。だから、お経とは「意味はわからないが、親や先祖がしていたからするもの」「わからないものは、ありがたい」というトンチンカンな現象があるんです。これが、あまり仏教に関心はなかったのに、お経は読めた私のトリックです。

わからないはコワイ

私は僧侶になる得度という機会に恵まれ、宗教や仏教を学ぶことができました。すると、宗教とは「人として普遍的な教え」であることがわかりました。普遍的というのは、仏教で言うならば「世の中、思い通りにはならない()」「世の中、常に変化し続ける(諸行無常)」
「私というのも日々変化する(諸法無我)」
という教えです。
なんてドライなんだいお釈迦様。かの有名な俳優◯ッキーマ◯スは「夢は信じれば叶う」と言っているのに。

しかし、物事を考え判断するには情報が必要ですね。仏教でいうならば「世間とは、生きるとは、私とは」という情報です。
それらを教えてくれるのが仏教ですし、得た学びを自分の糧とするのが宗教的教養です。

ココで最初に書いた親鸞聖人の言葉について考えてみます。
親鸞聖人は平安時代末期から鎌倉時代に生きた僧侶です。その時代は科学が発達していませんでしたから、災害や疫病が流行ると祈祷するのが当たり前でした。そんな時代に生きた人が、祈祷や祭祀をしている人を「悲しきかな」と言っているのは衝撃的です。何故、そんなことを言うのかというと仏教の普遍的な教えを思い出してみてください。

そもそも世の常など存在しないわけですから、人が老い、病に伏し、死ぬのは当たり前。その根本原理(自然摂理)を理解していないのが、卜占祭祀を努めとする人々の正体です。

ただ、仏教の基本原理を伝えたからといって、次の日から実践出来るかと言えば別問題ですね、人間とは必ずしも合理的か?といえば、それも難しい。だって煩悩まみれだから。皆んな死ぬのはわかっているけど、私や私の愛する人が病に倒れたら?死んだら?(愛別離苦)となると一気に話は変わるのではないでしょうか。

世の中、生きるの辛くて、何とかしたい、何なら何とかしてほしいのに、当たり前な事を言われても心に響かないよ!」と叫びたくなりますね。しかし、お釈迦様の言う事は間違ってはいない。間違いだと指摘できる人間がいたら、その人は既に悟りを開いているでしょう。

卜占祭祀を必要とされる気持ちは、私もよくわかります(ここまで言っといて)
しかし、根本的に生きている限り、思い通りにならない人生はつきまとうのです。

その事実を知った上で、皆さんが出来ることは2つ。

一つは、思い通りになるまで努力する(戦う)
二つは、あきらめる(自己を見つめる)

一つ目はよくわかりますね。
努力し、他者を蹴落とし、這い上がり、掴み取り、稼ぐ。これは1番わかりやすいかもしれませんが、それが出来なかった人は?という単純な問題を抱えています。

二つ目は「諦める」
これは、マイナス思考なイメージですが、(諦める)は仏教用語です。本来の意味は、物事を明らかにみるです。物事を明らかに見る方法は、私は仏教から学びました。皆さまもここまで読んでくださったのであれば何となく理解していただけたのではと思います。

親鸞聖人もそのような思いで書かれたのではないでしょうか。呪いや祈祷で願いが叶うなら医者も金もいりません。それより大事なことがあるでしょう?と問題提起してくださっているのですね。

わかったらコワくない

まとめとして
私達が普段何気なくしている行事は(習慣)
外国人から見れば、他宗教国家だと思われます。その理由は、教育機関などで宗教的教養を身につける術を学んでいなかったからです。だから、私のような仏教に関心のなかった者が、習慣としてお経が読めてしまうカラクリが出来ました。これを機に「仏教って?お釈迦様って?親鸞って?ハロウィンって?クリスマスって?正月って?」と起源を調べてみてはいかがでしょうか?

教養のない者は、どんな業界であれビジネス、詐欺師、新興宗教の餌食です

それをまずご理解いただきたい。
そして何より自分で考え、自分で学び、自分で行動することが大事なのではないでしょうか。
私は、僧侶としてそんな貴方のお手伝いをさせていただきます。

※根本的問題を提起しているだけで、スピリチュアルを否定しているわけではありません(どちらかといえば好き)

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