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はじめまして 後編

続きです。
はじめての方は
前編

https://note.com/masaan_01/n/ncc4344d74ea9

中編

https://note.com/masaan_01/n/nb81311bd0a1a

「勤式指導所」は、本山本願寺の北境内地にあり、西本願寺の勤行や作法を学ぶ場所です。しかし、得度とは比べ物にならないくらいの知識を叩きこまれます。お経も節のついた声明(しょうみょう)がいくつも出てきます。試験も毎月のようにあります。正座でどうこう言っていたのが恥ずかしいくらいです。

(浄土法事讃作法 誦讃 甲)

前期(練習生)と後期(研究生)の二期制で、前期はまだいいのですが、問題は後期の入所試験と3月中旬にある「修了試験」これに合格しないと私の就職への道?は閉ざされてしまいます。

いざ参る

大学生活も終わりに近づいたある日、なんとか卒業論文を書き終えた私は、早速「勤式指導所」への願書を書いておりました。入所試験の対策として、5年ぶりに筆記と実技の勉強をし(仏教学とはカテゴリが違う)事前に指導所の情報も集めました。
更に、卒業間近に京都で1人暮らしをはじめました。理由は、本願寺では早朝5時よりお勤めの準備をする為、始発では間に合わないのです。境内に宿坊(僧房)はありませんので、阪急京都線大宮駅付近のマンションを借り、そこから自転車通勤しました。

入所試験まで若干休みがありましたが、何をしていたのか覚えてないくらい切羽詰まってました。17歳より「どうしたものか」と考えて、ようやく具体的な道筋が見えてきたのに、ストレートで行けなかったら振り出しに戻るのではないか。そんな不安を抱えていたものですから、家にこもって机にかじりついていました。その甲斐あって、入所試験は合格。ついでに前期練習生課程もなんなく合格しました。

後で聞いた話ですが、前期は真面目にしてればだいたいは受かるのだそうです。不安に過ごした私の日常を返しなさい。というか、僧侶なのにまたしても不安な日々を送る私。(才能がないのか、修行が足らんのか

前期終了は7月で、後期入所試験は9月。8月はお休みです。理由は関西のお盆が8月だからです。しかし、この時期は帰郷せず、またしても家に引きこもっておりした。後期の募集人数は前期の3分の1程度。入所試験も出題範囲不明。教科書1冊暗記する勢いでした。

ここで、私が取得した資格を並べてみます。

得度→教師(住職資格)→法務員資格→巡讃資格→式嘆伝授→特別法務員
前期の時点では法務員資格まで。

まだまだです。

宗教的体験

後期試験も無事に通過し、晴れて研究生としてスタートいたしました。このままの勢いで「職員に俺はなる!!」と自信をつけはじめていた矢先、訃報が届きます。

前半で書きました、お爺ちゃんが往生したのです。しかも、後期入所式の前夜。肺に水が何度も溜まって入退院を繰り返すうちに、体力が衰えてしまった為でした。
お爺ちゃん子だった私にとって、心が折れそうな思いがしました。何なら、今まで築いてきたものがどうでもよくなるような感覚になりました。お爺ちゃんが入院してる間、何度か梅田にある病院へ足を運んでは経過報告をし、反応が僅かになっても、喜んでくれていました。早く1人前になって見せてあげたいと頑張れた部分もありました。しかし、この時ほど仏教の基本教理である「諸行無常」を思い知らされることはありませんでした。ただただ無念としか言いようの無い現状。冷たくなったお爺ちゃん。泣く親族。私は、何故か涙すら出ませんでした。

そんな放心している私を見て父が「お前、明日の入所式に参加し、葬儀はしとくわ。お爺ちゃん浄土から見てる。お前がそんなんでお爺ちゃん喜ばへんで?」と。

その日のお通夜には出席し、終電で京都へ戻りました。

僧侶なのにお爺ちゃんの葬式に出れない?本願寺?勤式?就職?なんでココ(電車)にいるんだろう?浄土からみてる?」人気の無い終電で、気力をを失った私は、ただ揺られ、思考停止したまま翌日の入所式を迎えたのでした。

不眠のまま早朝5時より朝のお勤めの準備をしました。「無事に合格できてよかった、後期頑張ろう!」と希望に満ちた仲間たちの声、自分もそうだったはず。しかし、今はそうではない。「一体、何をしているだろう」そんな思いが心を支配していました。

朝6時、お勤めが始まります。いつもの場所に、いつものように座り読経する。こんな気持ちで読経したことはありません。しかし、6時半頃だったか、京都東山から朝日が昇り、阿弥陀堂の内陣を照らします。ふと経本から顔を上げ、御本尊である阿弥陀如来を見ると、朝日を浴び金色に輝く様子が眼前に広がりました。その神々しい姿、「あぁ、お爺ちゃんのいる浄土だ」と思わず涙を流してしまいました。感動の涙か、悔しさの涙か、未だにわかりませんが、これが宗教的体験なのだと実感しました。その日の夕方、お爺ちゃんの葬儀が無事終わったことを親族に教えてもらい、泥のように眠りました。

次の日からは不思議とカリキュラムをこなしていました。慣れもありますが、それ以上に「お爺ちゃんは浄土にいる」という安心感があったからだと思います。「今なら何でもできそうな気がする」そんな気持ちでした。

ちなみに、この頃雅楽と出会います。私は龍笛という楽器をしていますが、笛の音色が龍の鳴き声のようだとか、龍が登るようだとか色んな説があります。ただでさえ他の声明や作法や当番などで忙しいのに、雅楽まで入ってくるんだから大変です。しかも、笛は最初ぜんぜん鳴らず、授業を受けても申し訳なさしかありません。はやく吹けるように指導所で、カラオケBOXで、公園で練習しました。この時は正直苦痛でしたが、今では「好きな音楽のジャンルは雅楽」面白いもんです。

朗報訃報

年末、ある話が舞い込んできました。

それは、大阪市生野区にある幸教寺のご住職さんが跡継ぎを探しているというものでした。師匠のお寺から近いこともあり、まず白羽の矢が立ったのが私でした。今は前住職であり、義母になりますが、この時はまだ現役で仏事を1人でこなしておりました。しかし、年齢が80歳を過ぎ、徐々に仏事が出来なくなっていたのです。早速、私は京都から幸教寺に足を運びました。すると、大変気に入っていただき「来年4月よりウチで勤めてほしい」と言っていただけました。何てこったい。本願寺に就職する為、勤式指導所に通ってるのに、まさか就職先が見つかってしまった。年末のサプライズは本来なら喜ぶべきですが、あまりに上手い話に困惑したのも事実でした。

年明け、指導所も数日休みになり、私は大阪へ戻って実家と幸教寺を行き来してました。というのは、3月の彼岸まで指導所のカリキュラムがあり、4月1日から幸教寺で勤める。ということは、数日しか休みがありません。それまでに引っ越しの段取りを済ませ、住む場所を決めなければならないからです。同じ大阪でも、生野区はまったく知らなかったので、実際に歩き回りながら見学していました。そして、桃谷にいい物件が見つかったので、そこに住む段取りをし、また京都へ戻り、今度は修了試験に臨むべく勉強をしました。

2月末、今度は母方のおばあちゃんが往生しました。母の実家は料亭『阪口楼』といいます。おばあちゃんはそこで長年女将として店を切り盛りしていました。

https://sakaguchirou.gorp.jp

しかし、数ヶ月前より腰痛を訴えはじめ、病院で検査をした結果、大腸癌ステージ4であることがわかりました。年齢も80を越えていたので、手術することなくモルヒネを投与しました。

何故、このタイミングで次々と訃報が届くのか。「おばあちゃんもう少しで大阪に帰ってきたのに、頑張ってほしかった」と思いつつも、痛みに耐えながら日に日にやつれてゆく姿を見ると、早く楽にしてあげたいとも思いました。

葬儀は四天王寺阿弥陀堂で行い、この時は通夜から還骨まで見送ることが出来ました。ですが、ゆっくりもしていられず、その日の夜に京都へ戻りました。話の件は、ほぼお爺ちゃんと一緒です。

3月中旬に行われた修了試験。

思えば、お爺ちゃんが往生し、就職先が決まり、おばあちゃんが往生し、、、

感情の起伏が激しく、試験はあまり覚えていません。気付いたら4月、幸教寺で義母と一緒にお参りをしてました。寺のポストに入っていた特別法務員合格通知書。

もういらない笑

でも、頑張った証だから大事にしてます。これまで常に前を向いて行かなければ、崩れる気がして歩み続け、現在に至ります。

後悔などありません。

自分が選んだ道ですから。

まだまだですが、お陰様で自分の心を鍛えられました。

お爺ちゃんお婆ちゃん、浄土から見てますか?

今、私は幸教寺 住職です。

皆様に支えられ何とかやってます。

私もいずれそちらへ往きます。

その時までは生きます。


はじめまして、こんな私ですが宜しくお願いいたします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100025115122814

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