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CCC公共図書館


抜粋資料.1

 福祉とよぼうが、人権とよぼうが、人間の一生には、よわい時とつよい時とがあり、よわい時はいまつよい人からいたわられて生きるしかないことは、人間の宿命だ。民主主義といえども、この宿命から人間を解放するものではない。かつて「家」でささえていたものは、なにかでささえねばならぬ。かつての「家」でささえきれなかったものもささえられるのが現代の自由でないか。 
 福祉は、なによりも、かつて日本にあった風土の回復でなくてはならぬ。かつて、あかんぼ、幼児、老人、障害者をささえた日本の風土は、たんなる自然ではなかった。それは「家」でささえた、みんなのいとなみであった。

『くらしと京都市政』(京都市広報課発行・編集) “福祉の風土”松田道雄著 より抜粋。

抜粋資料.2

「明倫小学校は京都の町の真ん中にあった。祇園祭には、学区のほとんどすべての町に山や鉾がたった。裕福な商家の並ぶ室町通りに面して学校は建てられていた。
学校を建てるのも、先生の給料を払うのも、すべて学区の人たちの拠出によっていて、市からは一文も補助を受けていなかった。 教科書以外の学用品は、すべて学校から支給された。親たちのむだな競争が、子どもに差別感を与えるのを防いだのだった。」
「雨天体操場のまわりの壁には、高いところによく見えるように、細い棚をつくって、日露戦争に使った銃だの、スコップだのが、並んでいた。それは陸軍が軍国思想を子どもに吹きこむために、学校に並べさせたものと思っていたが、間違いであった。陸軍は兵器を更新する費用の足しに、古いものを全国の小学校に買わせたのだということを最近になって聞いた。それを話してくれた人に「むりに金のない小学校に買わせたのでしょう」と言ったところ、それも間違いだった。
「希望する学校が多くて、買えないところもあったそうです」
昔のことは、今の目でみると間違う。今からみると、さぞかし当時の人は不平だったろうと思うことが、実はそうでなくて、喜んでやっていたことが少なくない。」
「忠孝ということでイデオロギーは一本に統一していた。経済的な困難など気にかけないで、子どもたちを自分と同じ思想の人間に仕立てねばならぬという使命感だけがあった。おそらく今の中国で毛沢東主席から、ほうびをもらう先生は、みんなあのころの明倫校の先生のような人たちだろう。
子どもが先生の言うとおりになるのが教育だったら、それは立派な教育といえる。また、先生にとっても楽な教育だったろう。明倫校の先生がたの落ちついた姿は、明治の精神とテンポののろい経済との平衡の姿だったのだろう。
しかし教育はいま過去の遺産を伝えるよりも、未来の生活への適応の能力を用意させねばならなくなった。
時代の要求に合わないものは、どんなに熱心に先生が教えても、子どもに定着しない。
げんに私は明治以来の伝統教育によって教えられた思想から、ある時点で離れてしまった。先生がたには、たいへん申し訳ないが、先生がたが熱心に教えてくださった思想は、雨天体操場の古い銃と同じに、私の中に跡をとどめなかった。
そういう方向転換をさせたものは何か。それは五年生のときに担任になった若い先生の、新しい自由教育への情熱が、私の中に眠っていたものに点火したからだと思う。」

『松田道雄の本2 教師の天分・子どもの天分』(筑摩書房)「私の小学生時代」より抜粋。

抜粋資料.3

「私がまなんだ小学校は京都の町のまんなかにあった。ここに来るのは、ほとんどが先祖からその町で生活している商家の子であった。子どもの母親は丸まげをゆい、眉をそりおとし、お歯ぐろをつけていた。子どもたちの多くは、丁稚のように前だれをかけて通学した。
学校の授業も、おそらく明治からのやり方をうけついでいたのであろう。読本はふしをつけてクラス全体でよみ、つづり方には題がきめられ、図画は小学図画手本をうつすのであった。 級長になる子はきまっていたし、劣等生もきまっていて、籐のむちで机をたたかれるのも彼らだった。
 ところが、奇蹟がおこったのである。
大正八年のことであった。ちょうど五年生になった私たちのクラスに、二十三歳の青年が教師としてやってきた。師範学校をでてすぐに付属小学校の先生になっていた人だったから、師範学校でも嘱望していたにちがいない。彼が京都の町のまんなかの旧弊な学校にやってきたのは、校長の塩見静一という人が、この古い学校に新風を吹きこもうとしたからだった。」
「私たちのクラスも、この新しい教師の出現によって一変した。図画は、長髪に紋付に草履という風体の画家がやってきて自由画ということになった。
いままで、いちばんきたない画をかくとされていた子の画が、もっとも個性的であるとして、展覧会には正面にかざられた。 洋画家の黒田重太郎もみにきてほめた。
つづり方は自由選題になった。それまで、勇気だとか、親切だとか目にみえないものについてかかねばならなかったのが、日常の生活をかいていいことになった。リアルな筆力をもってあたらしいタレントが何人も登場してきた。
画やつづり方で浮びあがってこない子どもは体操の時間に優越感をほこることができた。 あたらしく跳び台がつかわれることになった。 砂場がひろげられて三段跳びと、走り高跳びとが運動場でみられることになった。」
「クラスのひとりひとりが、自分のなかに眠っていたものが、目をさまして立ちあがるのを感じた。画やつづり方や体操が楽しかっただけではない。 読み方や算術の時間にもみんなが絶叫して手をあげるようになった。
先生はここで生きていられると私たちは教室で感じた。 過去の一切をかえた人物に私たちは完全に魅惑されてしまった。先生は私たちの英雄であった。休みの時間になっても、私たちは先生を職員室にかえさないで、運動場でキャッチボールの仲間にした。
教師の体温が生徒につたわって、その個性の殻にしみとおるといったのはこういうことだ。固定した優等生と固定した劣等生のあいだに平凡な生徒がいるという、子どもなりにもっていた宿命的な社会構造観が、そこで徹底的に変革された。人間はみんな天分をもっているのだという信念は、そのとき以来、私のなかに住みついた。」

『松田道雄の本16 若き人々へ』(筑摩書房)「芦田松太郎先生」より抜粋。

抜粋資料.4

(略)私は、はっきりと決心した。 夜間中学の教師だった私は、一応職場に帰るだろう。しかし、解放された機会に私は自らのあらゆる能力と時間を、子どもたちにむかって解放しなくてはならない。これからの時代は、子どもたちに期待するよりないのだから......。 私は真剣にそう思った。そして雑嚢をぶらさげて、焼け果てた東京へ帰った。吉祥寺の食堂の小さなコック部屋を借りて、停電のさなかに身よりだけをよんで結婚をする。焼けた残骸の校舎の裏で一、二のクラスを作って、やたらにがり版を切る。軍服教師の作った私製教科書は、かなり生徒に気にいられた。生徒たちは戦争や戦災で肉親を失っている者が多く、生活は極端に困難だったようだが、ふしぎと欠席は少なかった。
戦争は大人たちのバクチである。だが負いめは子どもたちが受ける。身におぼえのない者が大きな苦しみをなめた。子どもたちは放り出され、疎開させられ、遊び事や読書のかわりに、コケの一億一心、「欲しがりません勝つまでは」と唱えさせられ、工場へ、予科練へかり出された。
(略)新しい制度の新しい教科書が、てひどくアメリカの干渉になった、制約の多い程度の低い内容になりそうな形勢を、私は見た。教師をやめるべきである。兵営で考えぬいたとおりに広く精力的にどこかで働くべきである。教育は下のほうからでもできる。 ......そして私は教師をやめた。
失職すると、ものを書く勇気を出した。そのころ開かれた赤坂離宮の国会図書館へ通って、豪華なシャンデリアの下で、せっせとアメリカの子どもむき百科事典を読んだ。 学力の低下は必至だが、民間から子どもの百科事典のすばらしいものを出して、そいつをくいとめることができないだろうか、そう私は思ってプランをたてた。 社会科事典を出していた平凡社が私のプランをいれ、二十四年の夏に、私は、『児童百科事典』の編集にとりかかった。その仕事は八年間かかった。私はその間に子どもの本を、おもに外国の作品を読んだ。 

『児童文学論』下巻p.36-37 瀬田貞二著より抜粋。

抜粋資料.5 

眼をつむって、私がかよっていた中学の小さな図書室をおもいうかべてみる。ごくありふれた東京の区立中学である。そこには全三十二巻の玉川版はずらりとそろっていたが、平凡社版はなかった。要するに一九五〇年代をつうじての子ども百科戦争で、平凡社は玉川学園出版部に完敗を喫したのである。それはまた、学校のそとにあって、ときには学校を批判する役目をもはたす子ども百科の、五十音順の学科別百科、学校に従属する参考書百科になめさせられた敗北の証でもあった。この傾向は六〇年代の高度成長期にさらに強化され今日にいたる。
みかけの情報量の増大にもかかわらず、子どもたちは知るべきことを知る機会をあたえられていない。学校教育があたえる知識は、いまある高度産業社会を維持する必要のうちに封じこめられてしまった。 その他の知識は、それらを緊密に組織する基盤を欠いたままバラバラに放置される。現行の子ども百科はこうした状態を固定化する役にしかたっていない。したがって、それはもはや百科事典ですらないのだと私は思う。社会のしくみが揺れうごいて、知識を読みなおし、組みかえる必要が生じる。その必要をみたすのが百科事典である。ディドロやヴォルテールをもちだすまでもなく、戦後まもないころの子ども百科がそのことを私におしえてくれた。バラバラの知識を再編集し、そこに一定の中心と輪郭をあたえる。 百科事典の世界はユートピアの性格をおびている。だからこそ私はそこであそぶことができた。あそんでいるだけで、この世界の組織原理を感じとることができた。

津野海太郎著『編集の提案』「子ども百科のつくりかた」より抜粋。

抜粋資料.6  

一九三〇年代の日本共産党がコミンテルンに引きまわされたか、警視庁のスパイによってあやつられたかにかかわることなく、当時の反権力のたたかいに身を挺した学生たちの「ヴ・ナロード」の精神の立派さにかわりはない。それにふれることができたのは、私の青春のひとつの記念である。中野重治の憤怒にみちた詩はそれら青年の殉教の讃歌でもある。
共産党が潰滅したあと、国家権力は無人の境をいくように、国民を戦争にむかって引っぱっていった。そのなかで、明日は刑事にふみこまれるかもしれぬという不安をいだきながら、西陣の一角の無料診療所で毎日五〇人の結核患者のレントゲン透視をやり、十数人の空洞患者に気胸をして、大海の水を手ですくう程度の「結核予防」をつづけることができたのも、私のなかに憤怒と「ヴ・ナロード」の気持が消えずにいたからだろう。そのあいだの私の枕頭の書が『中野重治詩集』であった。

岩波文庫『中野重治詩集』 松田道雄による「解説」より抜粋。

抜粋資料集.7

そうした彼の気質は、中野重治のそれと相通じていると思う。そのころ、彼は何度となく、中野重治について私に語ったことがある。とくにその詩の多くをそらんじていた。
あるとき彼は、中野重治が素僕とは包装紙のない状態を指すと言っているよ、と私に教えてくれた。(中野のこの言葉はかなり有名だと思う。しかし、いま私は正確に紹介できているかどうか、おぼつかない。そのことをたしかめる時間がないことをゆるしていただきたい。)
そして彼は、我が意を得たり、というような、うれしげな笑いを見せた。
私は、そのとき、彼こそ包装紙のない人間そのものだと感じた。それはまったくたぐいまれな存在だった。

『子どもと子どもの本に捧げた生涯ー講演録 瀬田貞二先生についてー』収録「瀬田貞二君の思い出」日高六郎著より抜粋。


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