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「山姥へのサウダージ〜魂の故郷を探して」(初出「なしのつぶて」)

 1945年8月1日、B29大型爆撃機による1時間40分に及ぶ、長岡の空襲を疎開先の郷里小千谷から目撃した西脇順三郎。その翌年から「長岡復興祭」をスタートさせ、やがて、その長岡の空に花火を打ち上げ続けた後世の長岡の人々。2004年10月23日の新潟県中越地震では震源地になり甚大な被害にあった小千谷。中越地震から復興し、2011年3月11日の東日本大震災ではいち早く被災者を受け入れた長岡市。二つの震災と長岡の大空襲と花火大会をテーマにした映画『この空の花〜長岡花火物語』を撮った映画監督の大林宣彦が亡くなった2020年4月10日、その年の長岡花火大会の中止が発表された(2020年4月10日)。新型コロナウィルス感染拡大を防ぐ為の決断だった。
大林監督は著書『ぼくの瀬戸内海案内』(岩波ジュニア新書)で郷土愛の哲学を語り、故郷の広島県尾道を舞台に「尾道三部作」を撮った偉大なる郷土作家だった。


 本稿では新潟県小千谷市出身の旅する詩人、西脇順三郎を補助線に、郷土人(地球人)と地霊(地名)との関わりを通してホモ・サピエンスの「魂の故郷」に迫った。

「山姥へのサウダージ〜魂の故郷を探して」 

 詩人が新潟市小千谷市出身だという事を知り先入観を覆された朝
探偵は一度書き上げた調査報告書を全て書き直す事にした。おらおごった[まぁたいへんだ](小千谷弁標準語訳)

 昨年11月、探偵は大分県速見郡日出町に家族、友人と滞在した。大分県には「一村一品運動」という地域振興運動があり、日出町にも「麦焼酎二階堂」「城下かれい」といった特産品がある。社会学者の鶴見和子は大分県の「一村一品運動」を自身の提唱する「内発的発展論」のモデルの一つに数えている。

 探偵は四年ほど前からその友人の母方の祖父母が暮らした家の改修工事の為に断続的に日出町を訪れている。その家の主だった祖父母が出会ったのは古本屋。おじいちゃんは日出町の図書館の館長で、おばあちゃんは日出町の学校の国語の先生だった。本棚には文学全集が並び、おばあちゃんが朗読した文学作品の録音テープが百本近く残されていた。

 「学徒出陣で戦場に赴いた青年達が、不安の連続の日々にも背のうに一冊の愛読書をしのばせて、しみじみと読書に情熱を燃やしたあの戦争末期には私達も学徒動員で軍需工場で仂かねばならなかった。作業の間の僅かな休みや、代用食のあとの昼休みに、油に汚れた手で貢を繰りながら、岩波文庫を読み耽った思い出は私ひとりのものではあるまい。福岡の空襲では、道に焼死した人を見、幼ない子等の泣き叫ぶ声を聞いて戦争は生地獄だと知った。」
 「今、風光明媚の日出にいて、やっと自然の美に眼がひらけ、落着いた人生を味わっている。硝煙でキナ臭い思い出の学生時代と、物資の乏しかった戦後のわびしい青春の頃を回想する時、「もはや戦後ではない」と誰かが言っているが、これからの生活の中にこそ私の青春が始るのかも知れない。」(おばあちゃんが新聞に寄せた手記「我ヶ青春の記」荒金先生の巻③より)

 主が家を去ったあと、孫は蔵書の処分で悩む事になったけど、家財道具の整理をする内に、その家を本や文学が好きな人が滞在する為の場所にしたいと考えて本は棄てずに残す事にした。その家は古くて細い坂道の途中にあって、そこから見下ろす別府湾に降り注ぐ太陽の光はいつ見ても神々しく、もやがかっていて、見るたびごとに心が洗われる様な気がした。その友人のお父さんもは大分県(佐伯市)の出身の絵本作家で、ふるさとの自然の中で遊ぶ子どもたちの姿を絵本の中に描いている。

 西脇順三郎は「ふるさと」という短いエッセイの中で「一般的な近代人と同じく自分も心のふるさとを無くしていている」と書いている。「ふるさと」という言葉で「人間の根源的な存在」を意味したいという。

 「ジョイスは一生外国で生活したが、彼の小説はいつもダブリンのふるさとを思って書いたのであった。だから外面的にみても郷愁の文学ではあったが、精神的にみても人間自身の存在に対する根元的な情緒を探求したものでもあった。純粋な自然詩人はみな郷愁の詩人であった。ボードレールの「秋の歌」もヴェルレーヌの「秋の歌」も郷愁の詩であった。郷愁は母の愛のふるさとを思う心である。」(西脇順三郎全集第12巻刊末エッセイ 1「ふるさと」より)

 西脇は晩年、同郷の友人と一緒に郷里の古い地図を広げて、幼い頃に親しんだ「地名」を探す事を楽しみとした。

 「晩年に元代々木の家を改築するために、昭和五十四年(一九七九年)八月から半年ほど目黒の中町にある横部得三郎家に世話になったことがあった。私が訪ねて行くといつも、二人はまるでアラジンの魔法のランプをかざしているように郷里の地図を広げて、幼い頃の地名を探し合っていた。」(『評伝 西脇順三郎』新倉俊一著 Ⅶ 野原をさまよう神に 「自然に返る」より)

地名

 「のっけから申しますけど、昭和三十年までは、西脇さんは、「小千谷」って言うと非常に気分を悪くしました。露骨に嫌な顔をしました。ところがどういう心境の変化ですかね、単に年を取ったというだけのせいじゃないと思うんだけど、昭和三十五、六年頃から非常に、小千谷っていう音響を懐かしんでいらっしゃいましたね。」(鍵谷幸信「豊饒の詩人・西脇順三郎」より)
 小千谷(振り仮名 ヲヂヤ)
 今小千谷町、人ロ八千、信濃川の左岸に位置し、北越鉄道来迎寺駅の南二里余、本郡の治所とす。
小千谷は魚沼三郡の首邑にして、商賈工匠の大家多し、近世は会津領魚沼七組三万五千石の民政を視たる所なれば、おのづから小都会の勢を得、地形亦之に適道応す、上布は小千谷ちぢみと称し、本州の一名産とす。(『大日本地名辞書 第5巻 北国・東国』吉田東伍著)
 「地名に接するとき、私たちは自己の中の伝統的な感情を喚びさまし、過去とのつながりをあらためて確認するのです。それは指輪をこすることで亡霊を呼び出す外国の民話とよく似ています。地名に触れた途端、地霊が現われて、立ちふさがります。それは国に国魂があり、土地に精霊のあることを信じた昔の人たちの心根を、現代人の私たちもまた追体験することにほかなりません。日本人は長い間、枕詞や歌枕を愛用してきましたが、それらは古人の心を自分の心とし、居ながらにして旅情をあじわうのに、きわめて有効な方法でした。」(『日本地名研究所の歩み』谷川健一著)

 「こうした地名の重要さを今日力説しすぎることはありません。何故ならば、すべてが画一化された現代の生活風景の中で、刻々と変貌する風俗 に耐え得るものは、もはや地名しか残されていないからです。どの都市にいっても似たような景観があります。この紛わしい都市の貌を弊別する方法は、一つしかない。それは地名なのです。」(『谷川健一全集』第十五巻、書下ろし)
「文書だけが歴史資料ではない。文書記録のない村々でも地名が残されているおかげで過去を知る手がかりを与えられる。その地名が消えるのは、村の過去を知っていた古老が死ぬのとほとんどおなじょうな悲劇である。つまり幾千年以来の書かれざる村の歴史はそこで終止符を打つ。そうした現象が日本のいたるところで起こっている。その雪崩現象を私たちの意思ですこしでもくいとめたいと願わずにはいられない。(『神は細部に宿り給う』谷川健一著)


(谷川健一 熊本県水俣出身の民俗学者。著書に『独学のすすめ』、『南島文学発生論』など多数。)

 探偵が暮らす京都に、地名がついた野菜がある。「賀茂茄子」「聖護院大根」「九条葱」「壬生菜」。人も苗字が地名である場合が多い。苗と字で苗字。それぞれの野菜に各地の地霊が宿り、独自の味わいが生まれている。地名野菜は力士の四股名と並ぶ「地名」と「地霊」の働きを顕著に示す代表的な例だ。 文学者もこの地名野菜の様なもので、詩人は自らを苗にして旅し、気に入った土地に植わり、そこで束の間の培養を楽しみ詩魂を潤す。苗は根を地中に深く伸ばし魂の故郷に繋がる地脈を探り当てそこから地霊を汲み上げる様にして詩を書く。西脇もまた京都は洛北の地に植わり、詩魂を潤したようだ。その際の記録が“January in Kyoto”と題する英詩になって残されている。

 客人たち、あなたがたと一緒に歩いている人は誰か」「女だ」
 彼女は目に見える神聖だ
 修学院から岩倉へ行く途中
 杖をついて歩いているおばあさんだ
 ボタン模様のふろしきによく包んだ貯金通帳を
 頭にのっけてお金を引き出しにいくところだ(西脇順三郎“January in Kyoto”の日本語訳「京都の一月」新倉俊一訳)

修学院から岩倉の辺りは、探偵にも馴染みのある地域で、言われてみれば、確かに西脇好みな「淋しさ」の漂う一帯。西脇の詩の中に、詠まれることで、修学院も岩倉も、歌枕になる。

 苗は何処に植わったか?

 詩集 『野菜畑のソクラテス』の詩人の八木幹夫が、『渡し場にしゃがむ女』という、西脇順三郎の魅力を紹介する本を書いた。この本の冒頭に掲載されている風景写真に惹きつけられた。(『相模川 津久井渓谷→1934年夏の川下りー』という復刻版の絵葉書写真集からの一枚)本に転載された写真の画質は良くは無かったけれども奥行きがありディテールが豊かで滋養溢れているように感じられる風景だった。原版を観たいと思い相模原市にある販売元「山本書店」に電話をしたら「店はもうやっていません」。

 写真は昭和11年の夏に西脇が津久井を訪問した時に観たものと同じ風景を撮影したものだという。西脇も瑞々しいタッチで詩と随筆「ゴーガンの村」の中にその際の思い出を書き残している。八木の父母の故郷がこの津久井だった為に、西脇順三郎研究者である新倉俊一が昭和56年の夏にその風景の写真を撮りに津久井を訪れた際、八木が新倉を案内をした。しかしその時、既にその一帯は「城山ダム」の底に沈められ、風景は消滅していた。(城山ダムに沈む前の地域の様子は、ウェブサイト「屋根のない博物館」の中の「湖底に沈んだ村-水没するわがふるさと沼本部落を語る(平井正敏著)」に詳しい)

 蝙蝠傘の先で繁つている枝を押しわけて街道のすぐ脇から下へくだつて行つた。僕は以前から東京の人は誰れも知らないで東京からあまり遠くない、かくれた村、(村というよりも、土人的な部落)をさがしていたのだ。
 村へ降りて見る、到るところで多くの大人子供が笑つている。路ばたには鉛管で水が引かれている。この村は街道からみると殆んど気づかぬ程のものであるが、実は非常に美しいカーヴをもつた谷が湾をなしている。樹木と草花と水流、白い砂地、土地の子供の裸の色などは、どうしてもゴーガンの絵に出ているタヒチーの村である。特に谿流の岸は海岸と等しく、砂の堆積で、一つの砂丘を形成し、エノキや、南洋でなければないような樹が繁り、紫の影を投げてそこは相模川と道志川とが合流して実に美しい地域をなしていた。(後略)(昭和十一年十月)(随筆「ゴーガンの村」)

 西脇が「ゴーガンの村」と呼び、活写し、家を借りるか建てるかして住みたいとまで思ったその土地。晩年の西脇を喜ばす為に「あの風景を見せてあげたい」と考えた新倉の願いは叶わなかった。その翌年昭和57年6月5日に西脇順三郎は小千谷総合病院で88歳で生涯を閉じた。

 ① 当時の津久井の風景写真②西脇が書き残したこの津久井の風景に関する詩と随筆③津久井滞在時の西脇の状況(の研究者たちによる解説)④津久井の風景がダムに沈んだ現状。この4点が歴代の西脇順三郎研究者の努力の賜物として、私たちの目の前にお膳立てされている。

 津久井の地域史に関しては「屋根のない博物館」というWebサイトがあり、ここに驚くほど充実した資料が用意されていた。多種多彩なキーパーソンが地域の内外から現れて、津久井の歴史風土を記録に残してきた。そして日本で最初の民俗学の合同のフィールド調査が1918年8月15日〜8月25日までの10日間、柳田國男(日本民俗学の開祖)を中心に、今和次郎(「考現学」の提唱者)牧口常三郎(創価学会初代会長)など濃厚な10名の学者が参加して行われたのがこの土地だったと知った。(時間不足などの理由から調査は失敗に終わったとは柳田の後日談。)終戦後は歴史学者の木村礎が7年間を費やして津久井郡下を研究をし「封建村落 その成立から解体へ 神奈川県津久井郡」にまとめ、その研究を礎に多くの歴史学者が津久井から誕生した(「津久井郡が消えた」屋根のない博物館より)。そのような経緯があってこの肥沃な郷土資料群は形成された。

「屋根のない博物館」の「文学篇」の中には「西脇順三郎とゴーガンの村」という見出しで「ゴーガンの村」再考〜西脇順三郎は街道のすぐ脇の小道を下りて沼本に行きました〜」と題する文章があり、西脇が津久井で見た光の情景は詩人にとっての「郷愁の地そのものだった」と書かれている。

 西脇が詩や随筆に書き残した地名は、西脇順三郎という詩人を理解する為の、とても親切な手掛かりになる。西脇研究の第一人者の新倉俊一によると、西脇はその生涯で、5つの場所に住んだ。小千谷、東京都内の渋谷区と港区、イギリス、鎌倉。これで活動範囲をほぼ網羅したといえるらしいが、それ以外に西脇が書き残した地名で、突き抜けて気になるのが「津久井」だ。(※)

 「津久井」をネットで検索して「津久井やまゆり園」と出た。相模原市障害者施設殺傷事件の現場だ。西脇が憧れた風景を喪失した土地のすぐ近くで、あの事件が起きたと知ったことから、津久井の変遷を知りたくなった。津久井はダムに沈んだ風景だけでなく、平成の市町村合併で、地名までも失っていた。

 「津久井の変遷」と「相模原障害者施設殺傷事件」を関連付けた論考も探した。これに関しては『現代思想2016年10月号 緊急特集 相模原障害者殺傷事件』の巻末に掲載されている『土地の名前は残ったか? 吶喊の傍らで相模湖町の地域史を掘る』(猪瀬浩平著 )が著者が見つけた唯一のものだった。

(※実際には西脇は「ゴーガンの村」の中に「津久井」という地名を一つも書いておらず、探偵の完全な勘違いだった事が発覚。八木幹夫が著書『渡し場にしゃがむ女〜詩人 西脇順三郎の魅力』の第1章の一番最初の小見出しを「1 津久井の風景」とし、本文が始まる10.11pだけで「津久井」が七箇所も記載されている。それに影響されていたようだ。「津久井」は八木の父母の故郷だったので、個人的に強烈な思い入れがあったに違いなく、文中の「津久井」という地名が美しく輝いていた。地名は使う人によって輝きを変える宝石。その輝きに目が眩んだ。と言い訳して、書き直さずにそのまま記載する。(因みに、西脇が実際に書き残した地名は「スアラシ」(寸沢嵐)「アラカワ」(荒川)))

 岐阜県揖斐郡徳山村もダムに沈んだ村として知られている。徳山村の民宿の女将であった増山たづ子はその風景と暮らしをダムに沈む前に全て記録に残したいと村人たちの会話を録音する事から始まりやがて8万枚に及ぶ写真を撮り、現在それは数冊の写真集にまとまっている。その他にもドキュメンタリー映画『水になった村』を始めルポタージュや記録文集が数多く残されている。詩人の石垣りんは徳山村に滞在した際のに詩篇を書き残している。

(略)
ダムが出来る。
あのひとことが オカミの方から
ころげ落ちて来たとき
村には
かつて無いほどの大きなものが
ナダレ落ちて きたのでした。
その日から 村の人たちは
山に木を植える情熱をなくし
家の手入れを怠り
川の流れが 小石をころがすように
時の流れに 人は心の底で
ソロバン球をころがしはじめました。
(「一九七七年 岐阜県揖斐郡徳山村戸入にて」 石垣りん)
陸というよりは土地。土地ということは土。(「昔の土を憶ふ」西脇順三郎)

 「五木の子守り唄」で知られる五木村(熊本県南部)1966年7月、川辺川ダム建設予定地に選定された。住民は立場の違いから、長期間に渡り対立を続ける。五木村の水没予定世帯数は17集落465世帯、その内310世帯が都市部へ移転した。五木村の水没予定地にとどまり、「身土不二」の暮らしを続ける老夫婦の生活記録写真集『しかし、五木に生きる』の中に出て来る土地の土の話し。

 「私の妹が七つか八つの頃だったろうか。祖母が田の見廻りに行くというので、妹がついていった時のことだ。石垣が崩れて土が流れ出していたそうだ。祖母はそれを見て『土が惜しい』といって田んぼの中に横になり、周囲の土をかき集めながら、『家に帰って母から板をもらってきなさい』と妹にいったそうである。妹は急いで家に帰り、母からもらった板を引きづりながら田んぼに引き返してきたが、そのとき祖母はまだ田の中に横になって土をよせていたそうだ」(山下利雄写真集『しかし、五木に生きる』日本リアリズム写真集団出版局)

 農民は土地と直に繋がっている。強い結びつきがある。土地に向ってやる事がある。旅人は違う。旅人は耕さない。では旅人は土地に向って何をしているのか?

 写真家でエッセイストの星野道夫は19歳の時に神田の洋書店で買ったアラスカの写真集に掲載されたシシュマレフ村の写真を見て魅了されて以来、北方に限りない憧憬を抱き、生涯を捧げた。そして、空と大地の創造主である「ワタリガラス」の伝説を探して、シベリアに渡った旅の途中で、人間に餌付けされた熊に襲われて命を落とした。

 「あなたたちは、なぜ“たましい”のことを話さない。それがとても不思議だ。あなたたちはたましいというものをもっていないからなのか……、シャイアンの土地を出て初めてアラスカにやって来る途中、私は飛行機の中でずっと祈り続けてきた。旅をするということは、通り過ぎてゆく土地に眠るたましいを揺り動かすことなのだ…」(「リペイトリエイションの会議」でのシャイアンインディアンの古老の言葉。(星野道夫著『森と氷河と鯨』「魂の帰還」より)

 インディアンの古老のいうように、西脇も土地に眠るたましいを揺り動かしながら旅をしたのだろうか?たましいを失ってしまっている探偵には、残念ながらその判断が出来ない。

 「私は素朴なさびしい自然の風情を好む。その中に素朴な孤独な人間存在自身のさびしさを感じるからであろう。九月の中日から十月にかけて心が迷うところは、白く光るいなかの街道である。その路傍のガケから山グリが枝をたれさげている。私は旅人となってその道を歩くのだ。」(「路傍雑考」)

 西脇のこの文章を読んだ時、思い出しました。昨年の11月末に「山姥の詩が書かかれた古瓦」の撤収を手伝った時のことを......

 うち捨てられた無人の廃屋がポツリポツリとある物哀しい田舎道の路傍に山姥の詩が書かれた古瓦が置かれていた。そこに佇んでいると懐かしい何かが胸に流れ込むのを感じて、戸惑いながらも「この感じは好きだ」と確かめた。なんで好きなんだろう?貧しさ淋しさ、秋から冬へと移り変わる季節の色濃い気配が入り混じる田舎道、とそこに置かれた古瓦。すっかり現代人化したホモ・サピエンスによって無用とされた情景との再会。「無常観?」とふと思った。それはメキシコから来た芸術家ディエゴ・テオによる広範囲に及ぶインスタレーションの一部だった。

山姥よ
姿をあらわせ
あんたがいなくちゃ
我が母よ
何処なんだい こっちへおいでよ
帰ってきて
死者の門戸を超えてきて
我が母よ、あんたに会いたい
もう闇しかみえない(「古瓦に書かれた詩」ディエゴ・テオ作のアートブック『夜だけど、ほら生き物たちが呼ばれている』に収録。2019年秋、芸術祭“のせでんアートライン”に参加したディエゴがプロジェクトの一環で作った小冊子。印刷はHand Saw Press KYOTO)



 何故メキシコから来たディエゴが山姥にインスパイアひされたのかが現代人化したホモ・サピエンスの探偵にはわからなかった。ディエゴは山姥の他にも、地域の山(大阪府豊能郡豊能町)で捕獲されて人間に飼育されている熊の「トヨ」や、家族と縁遠くなり孤独の中に亡くなった陶芸家(とそのアトリエ)、朝鮮半島の民俗芸能の「タルチュム(仮面劇)」に使われた仮面にも反応し、インスタレーションに取り入れていた。それは地域を彷徨う複数の孤独な魂が、山姥に喩えられる何かを探した痕跡を、人が見過ごす様なひたすら淋しさを感じさせる場所ばかりを選び、刻み込んだ展示だった。ディエゴがモチーフとして選んだ山姥は、皺くちゃの山姥ではなく、喜多川歌麿が描いた金太郎(坂田金時)を可愛がる若く妖艶な山姥だったけど、彼が展示に選んだ場所は見捨てられた地域の古層が剥き出しになった町の「しわ」の様な場所ばかりだった。「よくもまぁ「古瓦」とか「山姥」とか「田舎道」とか今の日本では年配の方でも見向きもしない様な、もの悲しく淋しく貧しい存在にばかり目をつけたもんだな。しかしおかげで現代人化したホモ・サピエンスである探偵が当然のように捨て去ろうとしていた「情感」が不意打ちの様に呼び戻されてきたよ。この感覚、非常に「日本的」と感じたけど、もしかしたら世界共通の普遍的な情感なのかもしれないぞ」とそこまで考えて、ふと思い当たった。

サウダージ

 レヴィ・ストロースが著書『サンパウロへのサウダージ』の序文の冒頭でサウダージについてわかりやすく説明をしてくれている。

 〈サウダージ〉Saudade という単語は翻訳不可能だ、とブラジル人はいう。日本人もまた、彼らのことばで〈あわれ〉という単語について同じことをいう。興味深いのはこれらの語にある共通性が見られることだ。どちらの単語にも〈ノスタルジア〉に近い意味を探りあてることができるのだ。しかしそれだけでは誤解しやすい。なぜなら、ポルトガル語にはすでにノスタルジアという語が存在し日本人もホームシックという英語を自分たちのものとして取り入れて使っているからだ。だからそれらの語の意味はノスタルジアと同じではない。
 語源にしたがえば、〈ノスタルジア〉とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、〈サウダージ〉や〈あわれ〉はいまこの瞬間の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいは想起によるか、いずれにせよ、そこでは人やモノや場所の存在が、それらのはかなさ、一過性についての激しい感情に浸された意識 によって完全に占領されている。
 
 私が近著のタイトルで、ブラジル にたいして(そしてサンパウロにたいして)〈サウダージ〉という表現を採用したのは、もうそこに自分がいないのだという悲しみによるものではなかった。あれほど長いあいだ再び訪ねることもしなかった土地にたいして、いま嘆き悲しんで何の役にたつというのだろう。むしろ私は、ある特定の場所を回想したり再訪したりしたときに、この世に永続的なるものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられるような心の痛みを喚起しようとしたのだった。(『サンパウロへのサウダージ』レヴィ・ストロース著 今福龍太訳)

 翻って西脇の「淋しさ」には、ここに書かれている「〈サウダージ〉の様な情感に胸を締め付けられている感じはない様に感じる。

 西脇はひたすら淡々と朴訥とした調子で田舎道に点在している「淋しさ」を見つけながら散策する。この奇妙に情感を排した西脇の「淋しさ」は実母から冷酷な接し方をされた過去、故郷小千谷でいじめにあった過去から醸されているのかもしれない。自分自身を丹念に焙煎した西脇のマインドフルネスは線香花火の如く非暴力的に炸裂する。西脇はたよりないものに気づく事を持続する。辛い記憶は西脇がストレートに慕情に走るのを阻害するが、悲しみは予め抑制されてる。堰き止められた慕情は決壊する前に発電に利用され別次元のエネルギー「詩」に変換される。その中の奇妙にドライな西脇の佇まい、その擦れっ枯らした薬草の妙味、詩の中に故郷を作ってしまった詩人の安心と淋しさを私たちは味わう。構えていない時にだけ入ってくる物がある事を知りながら西脇はそよぐ。「風の順三郎」である。

 順三郎は幸せな幼年時代を過ごした後、小学校に進学すると田舎の粗暴な子どもたちから激しいイジメにあった事から自然に対して癒しと安らぎを求める習性を身に付けた。

 現代日本の社会環境の中で詩人になりたいという人は絶滅危惧種に見える。そんな中、バイト先の同僚だった小山くんはきっぱりと「詩人になりたい」と言い切った。小山くん。岸和田出身。『岸和田だんじり』『岸和田少年愚連隊』で有名な岸和田は関西屈指の気性の荒さを誇る街。詩人志望の小山くんには過酷すぎる土地柄だった。京都市内を移動するパッカー車の中、岸和田での辛い思い出を聞かせてくれた。

 “美しい言葉を紡ぐ詩人の才能は、苦悩にさらされて育まれるので、詩人の人生はたいがい争いや修羅場が多い”(『心の花輪』ヌー・ハーイ著より)

 精神科医で西洋詩の翻訳も手掛け、大変な詩の「目利き」だった中井久夫は「札付きのいじめられっ子」だった。同じく精神科医で詩を自在に引用して先駆的な手法で文章を書いたフランツ・ファノンはフランス軍兵士による過酷な人種差別にあった。西脇とも対談したイタリアを代表する詩人のウンガレッティは、戦場での銃撃戦の最中に塹壕の中で短い詩を紙切れに書き付けた事から詩人としてのキャリアをスタートしたさせた。カンボジアの詩人で小説家のヌー・ハーイはポルポト派により粛正された。

 自由に伸び伸びと言葉を話す機会を奪われ無邪気ではいられなくなった人たち。高温高圧のマグマの中で炭素はダイヤに変わり、漬物石は今も何処かで野菜を漬物に変えている。同じ様に社会の各種プレッシャーが人を詩人にする。詩人は記憶を蒸留させ言葉にする。自然は詩人の感受性のシェルターになり、時が訪れたら壊滅した楽園の廃墟に再び詩人を立たせる。詩人はそこで古い地名を口にし「もう一度ここに集まろう」と土地の亡霊たちに呼びかける。同時に探偵の荒廃した心にもざわめきが起こる。

〜ざわわ ざわわ ざわわ〜御風は言う

 外に愛慕すべき郷土を失うことは、同時に内に心霊の故郷を失うことである。(by相馬御風)
 故郷は、誇りうるものでもない、突き放すものでも排除するものでもない。しかし、自分の血と肉と骨と声を、考える方法を形成してきた場。そういう場が、あの大津波で壊されてしまったという思いは、わたしにとって永久に癒えない傷として残るだろうと思います。(辺見庸『瓦礫の中から言葉を』より)

 もしかすると、たましいとは人間が持ち歩いているふるさとのことなのかもしれません。

 順三郎が小千谷出身と知って、どんな場所か知りたくて、京都市図書館のホームページで「小千谷」と検索した。最初に「『わたしの好きなわらべ歌』CD-寺尾紗穂/演奏」と出てきた。「どうゆうことですか?」とネットで調べたら一曲目の「風の三郎〜風の神様」が小千谷市首沢の「風の神様」と長岡市宮内町の「風の三郎」をくっつけた歌という事がわかった。

 風の三郎 ごーんと吹くな あしたの晩に餅ついて あげろあげろ
(長岡市宮内町)
 風の神様 ごっと吹いて くらっしぇ くらっしぇ あしたの晩に 餅ついて 酒買って あげる あげる(小千谷市首沢)(WEB本の雑誌 「わたしの好きなわらべ歌」第六回 新潟の風のわらべ唄より)

 寺尾がわらべ歌を歌う様になるきっかけが山姥だった。 寺尾は娘さんたちと一緒にyoutubeで「日本むかし話」を観ていた。子どもたちが山姥に追いかけられる話が好きで何度も観たがる。ふと気になって他にも山姥が出てくる話がないか「日本むかし話 山姥」で検索。10件以上の山姥の話が見つかり全部丁寧に観ていくうちに山姥の虜になった。そこには恐ろしい山姥の他に優しい多様な山姥がいた。寺尾の山姥研究がの始まりだった。ある時、山姥に関する論文が載っている雑誌を手に取り項を開くと、わらべ歌の直筆採譜が載っていた。

 「こうしてたまたま出会った楽譜をみながら主旋律のメロディを口ずさむと、すばらしく優しい和音が自分の中で鳴り始めるのがわかった。シューベルトの子守唄も、江戸の子守唄も敵わない、切なく優美な旋律が耳慣れぬ方言の歌詞とともにそこに記されていた。」(同上WEB本の雑誌 「わたしの好きなわらべ歌」第一回 徳之島の子守唄)

 そこで今度は山姥に導かれる様にわらべ歌の採集が始まる。子どもたちが保育園で覚えてきた手遊び歌を一緒になって家でやる寺尾は幼稚園時代のワクワクした気持ちを思い出す。「ああ、この感じ、となんともいえない気持ちになる。自分の手のひらから広がる音、自分の手が作り出す形、自分の声と結びつく手の動き。すべてが新鮮で、当時の教室の空気と一緒に思い出す」寺尾はわらべ歌を子どもたちが忘れてもいいという。

 「私が年老いて、長女にもう一度「ねんぐゎせ」を歌ったとき、そのメロディーの心地よさとともに、幼いころ歩きながら見た空の色や、風のにおいをひょっと思い出してくれたら、もうそれで、十分なのだ」(同上)

 アラスカで本格的に小説を書きはじめた文学者の大庭みな子に『わらべ歌夢譚』という快著がある。お万という子守のお手伝いさんが唄ったわらべ歌を中心に言葉と命と事物が混じりあう摩訶不思議な世界(たぶんこれを「アニミズム」と呼ぶんだと思う)を、みな子が新潟で過ごした幼年時代に大好きだったお手伝いの「おミツさん」の思い出を元に書いた。順三郎にもユキという乳母がいて「順三郎が孤独な異郷の地で思いを馳せたのはこの乳母であった」(『評伝 西脇順三郎』幼時の追憶 P.21)というから、もしかしたら順三郎も同じ様なわらべ歌を聴いて育ったかもしれない。このお万の即興的で変幻自在なわらべ歌の技術とその記録は非常に得難い資料だと思う。わらべ歌は地霊と方言と民間伝承のビオトープだ。そしてお万に山姥を感じる。

 「お万は全くの文盲というわけではなかったが、わずかの漢字と仮名しか読めなかった。だが、その分驚くほどたくさんの唄や物語を譜諳んじていた。きれぎれの語句を自分風につなぎ合わせる才もあり、わたしの家にいた数年の間に、わたしの育つ年齢に応じて、いろいろな話を聞かせてくれたり、唄を歌ってくれた。
何度も繰り返すうちにその語句はときによって違うことがあり、調子も節まわしも異なることがあった。手鞠唄かお手玉唄風であったり、長唄風であったり、また馬子唄、子守唄、祭の唄の類の民謡の調べであったりした。
 庭の草や木、虫、鳥、を見ればすぐ歌の文句が出て来たし、風が吹いても雨が降っても、どこかで聞き憶えた歌になるのである。」(『わらべ歌夢譚』風の唄より)
 「三つばかりの妹が意味を考えずにやたら口真似し、すらすらと憶え、お万は意味を考えるのやら考えないのやら、わたしは少し考えて、何だかわからなかったが、まあ憶え、今もこうしてロの中に転がしている。そしてわけがわからないながら、世界とはそんなものかもしれぬ、そして、今でも憶えているものなら、後の世の人がまた考え直したり面白がってくれないものでもないから、書きとめておこうと思っているらしい。」(『わらべ歌夢譚』風の唄より)

 新潟で幼年時代を過ごし心の故郷としていた大庭は1996年脳梗塞で倒れる。脳梗塞で半身不随になった際に友人達から盛んに和歌を詠むよう勧められる。それは先立って社会学者の鶴見和子が脳溢血で倒れた際に、和歌が溢れ出しその歌を命綱に死の淵から回生したエピソードが世間に広まっていたからだろうと大庭は書いている(『風紋』)。大庭のトレードマークは「山姥」だという詩人の水田宗子は大庭との対談、評論を多数出版している。(水田編『山姥たちの物語』は名著。)

 鶴見和子は1995年12月24日に京都宇治の自宅で脳溢血で倒れた。『山姥』は鶴見和子が生前最後に出版した歌集のタイトル。2001年5月、免疫学者の多田富雄も旅行中の金沢で脳梗塞で倒れ三日間死線を彷徨いその恐怖から開放された際、五十年の時を隔て文学少年の血がたぎり、いくつもの詩が湧きだし、その日届いたばかりのワープロにそれを書き留めた。鶴見と多田の書簡集『邂逅』の中で多田は鶴見を山姥に喩えている。「山姥はエコロジーの精霊」と多田富雄はいう。(鶴見和子にも寺尾沙穂、大庭みな子と同じく「わらべ唄」に関する非常に興味深い対話が残されている。興味のある方は『言葉果つるところ―鶴見和子・対話まんだら 石牟礼道子の巻』の「第2場 息づきあう世界ー短歌」を是非。)

 我という地層を深く掘りゆけば原初のわれは山姥ならん(鶴見和子句集『山姥』より)

 
 『山姥の源流ー上路の山姥の民俗学的考察ー』という和綴じの冊子は山姥は日本民族の魂のふるさとであったとして締めくくられています。

 「(略)日本の祭儀、儀式、芸能、伝説、昔話、その源流に、山の神を祭る山人と、巫女山姥の姿が厳として存在するのです。わたしの山姥は、日本民族の魂のふるさとであったのです。」

 ディエゴはおそらく、この中で「日本民族の魂のふるさと」とされている「山姥」に対してサウダージを感じたんだと思います。魂の故郷に国境はないということでしょうか。

 2020年5月11日夜8時、Eテレで「故郷へ~サハリン“樺太”で生まれた ろう者の戦後~」という番組が放送され画面に釘付けになった。戦後両親と死に別れてサハリンに取り残され、日本を愛慕し続けたヒラヌマ・ニコライさんと、戦後、生まれ故郷のサハリンを離れ日本に暮らしサハリンを愛慕し続けた村川健雄さん。二人ともろう者であった為に情報を得る力が弱く、サハリンと日本が飛行機で行き来出来るようになった事を最近まで知らなかった。特定非営利活動法人UPTAIN高波美鈴さんの尽力のおかげもあって、その二人が互いにサハリン、日本、に「帰郷」する。そしてその二人が、日本で邂逅する。(兄弟でもないのに、何故かものすごく似ている)ヒラヌマさんの日本への帰郷を「我が事の様に」祝福するろう者の人々。ヒラヌマさんが日本に降り立った時のコメント「たましいがここが私の故郷だと言っています」。村川さんが繰り返し追憶の中で訪ね続けてきた、思い出の場所をついに見つけ、そこで釣りをした思い出が記憶の中から呼び覚まされ、魚がかかった手応えや釣竿を操る動作までを、ありありと思い出し、全身で釣りの記憶をみずみずしく再現するシーン(目に見えないはずの地霊の存在を感じた)。思い出の場所を辿りながら、慕っていたお兄さんのお墓が入っている日本人共同墓地をお参りした時の、村川さんのしゃんと伸ばした背筋。二人が日本で邂逅し抱き合うシーン。どれも表情が素晴らしく自然で、この人たちには「たましい」があると思わされた。そして記憶の中のサハリンの風景が実際に残っていて歓喜する村川さんと、初めて見る故郷日本の、高層ビルとネオンに覆われた都会の風景の中に、タクシーの窓越しに故郷らしい「面影」を探すヒラヌマさんの対比。耳が聞こえないことで、音声情報に惑わされないからなのか、魂が彼らには宿っていると、強く感じた。

 「ブラジルの声」と呼ばれるブラジルを代表する歌手のミルトン・ナシメント(Milton Nascimento )は「ブラジルの子宮」と呼ばれるミナスジェライス州(Minas Gerais)で幼少期を過ごした。(因みに西脇市(兵庫県)は「日本の臍」と呼ばれている。)ミルトン・ナシメントは名前の中に心の故郷の地名「ミナス(MINAS)」があり、それは彼の代表作のタイトルにもなった。探偵はブラジル人ではないけどミルトン・ナシメントの声と旋律の中に「私のイメージのするサウダージ」を感じる事が出来る。それはなにも特別な感性じゃなくて、ホモ・サピエンスが普通に共通して持ってる感性なのではないかとおもう。

 タイトル曲「ミナス」。祈りの歌にも似た崇高さと、わらべ歌にも通じる素朴な美しさが共存するこの曲を聴いているうちに、僕は思わず胎内回帰したような気持ちになってしまう。(アルバム『ミナス』日本版ライナーノーツ(中原 仁著))

 西脇順三郎は自分の故郷は小千谷ではなくて地球だと言ったそうです。「地球が懐かしい」と。さすが詩人です。「地球が故郷」という感覚について哲学者エドガール・モランが書いた『祖国地球〜人類はどこへ向うのか』という本にタイムリーな事が書いてありました。

 人間には細菌を何十億と大量に殺すことはできても、抵抗力をもつ細菌が増殖するのを止められない。人間はウイルスを絶滅できたとしても、人間はあざ笑うように新種のウイルスが現れ、変異し、再生するのをただ見ているしかない。細菌とウイルスについてだけでも、人間は生命と、また自然と交渉するしかなく、それはこれからも変わらないだろう。(結論「祖国地球」)
 これから私たちが学ぶべきなのは、地球という惑星の人間として、存在し、生き分かち、伝え、交感することだ。もはや単に一つの文化に属するのではなく、地球人である、あり方を学ぶことだ。(同上)


 地球がふるさとと言った順三郎も小千谷への「望郷の思い」は捨てきれず最晩年は小千谷に暮らし、そこに骨を埋めている。郷土の魅力について新潟県糸魚川の郷土作家の相馬御風は言っている。郷土の魅力とは何か?他の土地と比べて風景がきれいだとか、人情があるとか、暮らしやすいとかそうゆう事じゃないよ。それらがたとえ見劣りしていようが、人は郷土に愛慕の情を抱くのだ。それは全く「何となしに」なのだ、と元も子もないような事を断言する。

 「郷土の人心を惹きつける魅力は実にこの何といって見ようのないところから発する。それは自然と人間と、過去と現在とを一つに融かした一種不思議な音楽的な、詩的な魅力である。また私達が郷土を慕う心は全く自分にもよくわからない内心自発の情緒である。この不思議なる情緒の存在している事実はおそらく如何なる理知的な人といえども否定することは出来ないであろう」(『相馬御風 その生涯と作品』(出版元 糸魚川教育委員会)より)

 鳥取県出身のギタリストの中村好伸は全6枚のアルバムの内の5枚に「望郷」という言葉をつけている。はじめて『望郷二』というアルバムのジャケットと、そのタイトルを見たとき「なんて地味な.....」と思ったけど、今回「ふるさと」について色々調べてみて、その真意が少しわかった様な気がした。ミルトン・ナシメントが、心の故郷ミナスジェライスの幼児の落書きのような風景の絵を、大切にジャッケトに使っているのにも同じような思いがある気がする。他人にとっては何の変哲もないような、しかし当人にとっては思い出がいっぱいつまった故郷の風景の、何物にもかえられない価値を示すのはとても難しい事で、だから現代人化したホモ・サピエンスは平気で、だれかのふるさとの村をダムに沈めてしまうし、なんでも取り壊して新品に建て替えても喜んでしまうし、地名を粗末に扱う。日本中の風景が自然災害や人為的な市街地再開発事業などで情け容赦なく破壊され続けている中で、土地に対する思い入れを表現した作品や記録は、人間の持つ根源的な情緒の在り方を思い出させ、失われ行く故郷の風景をその中に含む地球環境の価値に気付かせてくれる。西脇がせっかく書いた文章を若い人から「あんなつまらないものを書いてよこすなんて先生ったらひどいわ」と言われ「自分は昔からつまらないものが好きなんだからしょうがない」と書いたそのつまらないもの、すなわち「指定部外文化財」である町の「しわ」がふるさとの顔の一番大事な部分なんだと、大林監督も『僕の瀬戸内海案内』に書いて、町の「しわ」を悪しきものとして、ためらいもなく除去してしまう日本人の「コスメティックな価値観」に警鐘を鳴らしている。

 郷土作家としての西脇は、故郷に対する率直な愛情を母校の校歌と絵画の中に描き残している。今回、西脇を「軸線」ではなく「補助線」に調査を進めた結果、気付く事夥しく、この調査をしつこく続けたおかげで、西脇順三郎を読むコツが少し掴めた。引き続き探偵を続けて、もう少し長い調査報告書を書いてみたい。

 冒頭に書いた日出町にルーツを持つ友人から、絵本作家だったお父さんの遺稿を元にして描いた新作の絵本が届いた。『ぼくのつり』というタイトルで、タイトルどおり「ぼく」がお父さんと釣りに行くという、この上なくシンプルな絵本だ。その付録冊子に掲載された作者のコメントを最後に引用して、この「西脇順三郎に関する調査報告」を締めくくりたいと思う。

 「私が描くにあたって、 小さい頃に釣りに行った記憶を呼び起こす作業が必要でした。そして、その記憶に肉付けするべく何度も思い出の海に行ったり甥っ子と釣りをしに出かけたりしました。それは取材といいながらもなんとも愉しい時間で、私は小さい頃、魚の針を父や兄に外してもらったり、家に釣って帰った小さなアジを母に料理してもらったことを思い出しました。」
 「この絵本を子供たちがどんな風に読んでくれるのか、私には想像もつきません。願わくば、これを読むことがひとつの体験となり子供たちの思い出のひとつとなってくれたら、 こんなに嬉しいことはありません。」(月刊予約絵本「こどものとも」通巻 770号「ぼくのつり」菅 瞭三 原案 かん かおる 作 2020年5月1日2020年5月1日発行 発行所 株式会社福音館)

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