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運読のすゝめ

 読書感想文が「読書体験」を偲ぶ追悼文だとすれば、読む前の本やレビューを読んで読んだ気になってる本、と言った「既読」ではなく「未読」を中心にした「読みかけ」「積読状態」を、読書における「読む」に均衡する重要な読書状態に位置付けてみたい。

 未読状態には逆余韻、前余韻の様な感覚を覚える。競馬の予想を例にしてみよう。競馬は実際に馬が走ってる状況も面白いだろうし重要ではあるが、「予想」にもそれに均衡する愉しさがある。実際に馬が走ってる瞬間、競馬におけるカタルシスは絶頂を迎えはするだろうが、その1、2分が過ぎてしまえばその競馬は永遠に過去のものになってしまう。結果の出てしまった競馬はもう二度と予想する事が許されない。それに対して走られる前の競馬には予想という自由の天地が広がっている。醍醐味の半分はそこにあると言って良い。

 恋愛についても同じ事が言える。恋愛はもやもや片思いしているだけの状態にあってもそこに醍醐味がある場合がある。我々の記憶にも新しい「official髭ダンディズム」の「プリテンダー」という大ヒット曲においては、恋は始まる前に終わってしまい、フラれる前に諦めてしまっているのだが、何を考えたのか、その事を歌にしてしまうことによって凡百の成就した恋愛の数段上の支持を集める事に成功してしまった。失恋の再利用が空前の経済効果を生み出した。サスティナブルな失恋、この意表を突くビジョンが強烈に社会に突きつけられた。失恋は最早晴れやかで清々しい。流石は「official髭ダンディズム」である。

 メールにしても既読ではなく、未読である時だけにある魅力がある。そこに未読の味というものがある。もぎたての桃の様な未読メールが受信欄で輝いている時の姿を読者も思い出すことが出来るだろう。プレゼントは何が入ってるかわからない箱の中に隠れている状態が最もプレゼントとして充実して光り輝いていると言える。「プレゼントの青春」が確かにそこにある。プレゼントとしての無限の可能性。そしてその状態こそが「プレゼント」なのかもしれない。

 それでは歴史はどうだろう?歴史は主に過去を扱う。今のところ寡聞にして未来を扱う歴史というのは聞いたことがない。既に走られてしまった競馬であるところの過去の出来事に対して何故、歴史家はそんなに熱狂出来るのか?歴史家は史実を掘り返しそこから史実に忠実ながらも独自の解釈をふんだんに盛り込んで魅力的な物語を編みだすことに心を砕く。そこから編み出される歴史は未来へのメッセージの形式を取る事もしばしばある。歴史家による史実の掘り起こしという作業は、この世界で既に過ごされてしまった無数の出来事の「記録」を忘却の彼方から救い出す行為である。しかし資料は空間を占有せずにはいられない。プロ、アマ問わず歴史家に掘り起こされ、読まれなければ、ただの荷物として簡単に邪魔者扱いを受け、廃棄、焼却されてしまう危機に常に曝されている。だから、資料の利活用は一刻を争う急務と言って良い。災害救助隊員は生き埋めになった命を救い出す為に瓦礫の海を掻き分ける。歴史家が資料を掘り起こす手付きにも、いつ何時この世界から失われてしまうかわからない資料の命を救い出す、「使命」にも似た気持ちがあらわれている様に思われる。

 読み物としての本以外の本。例えば運ぶための本。サッカーボールはひたすらに騒々しく蹴られコートの中で跳ね回わる。そのサッカーボールの如く読まれる事も無く本が運ばれまくり、移動し、パスされていくことで、読んでいては不可能な速度での新しい運動が生まれる。これを今、運読と名付けてみる。

 ひたすら運ぶ。本を図書館から借りては運び、そのタイトルすら忘却の彼方に消え去りひたすらその重みに集中する。読書の卵を温めるように。その様にして図書館から何度も何度も借りては運び、様々な場所に本を連れて行き本を動かす、本を文字通り揺さぶる。本からのパワハラとしての「読む」事の強迫が生み出してきた抑鬱状態「読めない」「読まない」の挫折感を分解する為に本を運ぶ事で抵抗する。本の動いた軌跡を記録する。書影を撮影する。まだまだ読まない。いつまでも読まない。読書が熟し発酵するまでは、ただひたすらに運ぶ。揺さぶる。そうするうちに卵が温まってきて、殻が割れて読書の雛が孵るかもしれない。これが運読。ラグビー選手たちがスクラムを組み、抱き抱え、自分より後ろの人へ、後ろの人へとパスをしていく、あのラグビーボールを本に置き替えてみる。すると視界が急に開けてラグビーの本当の意味がわかってくるような気がする。「ラグビーボール」は「サッカーボール」より扱われ方が本に似ているかもしれない。ラグビーボールの様に後続の読者へ読者へと回され続けたボールが所謂「古典」である。古典は時代という試合が終わってもパスされ続けているラグビーボールである。

 さて私の場合もこの運読期間が5年はあった。しかし私は運読者としては消極的運読者だった。図書館で本を借りるだけ借りて目を通さない事に罪悪感、不完全感を感じていた。つまり本からのパワハラにあっていた。むしろ完璧な読書としての運読、というものを考えてみたい。「プリテンダー」の様な。始まる前に終わってしまった、フラれる前に諦めてしまった読書体験の墓標としての本と連れ添って旅に出る。もしかしたら訪れた先で1ページだけ開いて禁断の読書をしてみるかもしれない。その場で無作為に開いたページには、人生への重要なメッセージが描き込まれている。かもしれない。

 思えばこれまでも本はずっと運ばれてきた。ランドセルは同じ本を一年間、何度も運んでも痛まない為の形をしている。聖書は繰り返し読まれる本であるのと同時に、繰り返し運ばれ、時には海を越え、時代も超えて運ばれ続ける運命を背負い続けている本だ。

 もしかしたら、読むというのは運ぶ事に他ならないのかもしれない。多分ほとんどそう言って間違いないという気が今しがた、した。読む事によって人は本を運ぶことが出来るようになるのだ。レイ・ブラッドペリの『華氏451』には「本の所有」が禁じられた世界が描かれていている。ラストシーンでは選ばれた者たちが世界の重要な書物を記憶して集まる。このシーンが本を読む事が本を運ぶ事に等しいという事を良く現していた事にも続けて気づかされる。

 運ぶために読む。これが読書における極意ではないか。

 さあ、心を、新たにして、本を、運ぼう。

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