わたしの母

母の一生を一言で例えるなら「昭和時代のブルース」だろう。
鹿児島の片田舎で産まれた母。
小作農の貧乏家族、母の母は早死し七人兄弟の一番上。若い頃はやんちゃだったようで、口ごたえばかりして言うことを聞かない母を、母の父は古い農家の一軒家の周りを走って追いかけ回したらしい。それは20代まで続いたようだ。

母は大正15年産まれ。名前は東フサエ。私を産んだのは母が45歳の時。今でこそ聞かない話ではないが、当時はそれはもう高齢出産もいいところ。小学生の頃、母が授業参観にくるとおばあちゃんが来たの?と毎回聞かれ恥ずかしかった。

とにかく母の実家は貧乏だった。
鹿児島の中でも田舎、海からは歩いて五分ほど。海からは桜島がきれいに見えた。小作農の長女に産まれ、後に六人兄弟と父を支える大黒柱となる母はとにかく元気で勝ち気な性格であった。母の母の話はあまり聞いたことがない。早死したらしい。後に再婚したらしいが、再婚相手を私の母はあまり好きではなかったようだ。

母は小学生の先生になった。貧乏家族の父と6人の兄弟を支える大黒柱となった。先生としても負けん気の強い性格だったらしい。運動会ともなれば、同学年で自分のクラスが学年で一番になるように喚いた。特に男性教師には負けたくなかったようだ。母は悪さをする生徒には容赦がなく、自分が父から逃げ回ったように、生徒を追いかけ回した。反対によく勉強し成績の良い生徒には特別目を掛けかわいがった。

母の実家、東家の兄弟はとにかく勉強したらしい。東京から遠く離れた鹿児島で金を稼ぐには勉強をして少しでも良い学校に行くことが立身出世の全てだったようだ(少なくとも東家ではそのように考えていたようだ)。
そんな七人兄弟の子供たち(私や従兄弟)もよく勉強した。勉強させられたのかもしれない。私も母からはいつも『勉強しろ、勉強しろ』と厳しく育てられた。親戚家族が揃うといつも子供達の成績や進学校のことで話が持ちきりだった。当時は嫌だったが今にして思えば勉強する習慣を身につけさせてくれた母や東家に感謝している。

母や母の兄弟はみな出来が良かった。しかし東家は食うのが精一杯。高校にさえいかせるお金がない。
母の兄弟たちの中には中学を卒業してすぐに働いたものも多い。学校の成績は優秀であったのに。高校に行けないことが決まった日、叔父は姉(私の母)の前で泣いたそうだ。叔父は丁稚奉公に大工の道を選び、後に建設業として起業。東京の赤羽に旗揚げし、埼玉に拠点を移した。自分の、そして東家の優秀さを証明するかのように、叔父は県内で長者番付にのった。

母は下の6人兄弟の結婚相手にうるさかったようだ。
天塩にかけて育てたのは自分だ、という自負もあったに違いない。
妹の結婚に際し、相手が高卒だからという理由で猛反対したそうだ。自分の兄弟は中卒だというのに。学業コンプレックスだったのかもしれない。母の妹は、母に結婚を猛反対されたが反対を押し切り結婚。妹(私の叔母)も母に負けず劣らず男勝り。この話は、後に兄弟同士の宴の席でいつも話題となる。私も小学生の時に幾度となく聞いた。

下の六人兄弟全員が結婚するまで見送ってから、ようやく自分(私の母)が結婚することとなる。私の父(母の3歳年下)とはお見合い。結婚後、待望の子供(私)が産まれる。年齢45歳。もちろん帝王切開。
下の六人を育て上げ、自分の子供を産んだ。これからは母が幸せになるはずだったのだが、人生にほっと安心したのだろう。痴呆症となってしまった。気が抜けてしまったのかもしれない。
私の記憶の中での母は、いつも病気だった。痴呆症、糖尿病、骨折、、
旦那(私の父)も結核に始まり常に病弱。
母は結婚してからも貧乏だった。

母は七人兄弟の働き手ではあったが、家庭のことはあまりしてこなかったのだろう。料理も苦手であった母が一度だけ姉妹から教えてもらい作った家庭料理は今でも覚えている。小学生だった私はもう一度作ってくれるよう泣いてせがんだが、母は痴呆症のため作り方を忘れてしまった。

母は不思議と自分の兄弟との集まりの場だけは精神的にしっかりしていた。
七人兄弟とその家族が集まるとそれはもう宴が騒がしい。
昔の九州人であるから、男達はビールから始まり焼酎、日本酒、ただただ飲むばかり。女性達は男達のお酒、食事やおつまみを延々と用意する。でもキッチンでは女性達の楽しそうな笑い声も聞こえる。男達がお酒を腹一杯堪能し、泥酔し出す頃、ようやく女性達は机に座り遅い食事を始める。
母は長女だからか、男勝りだからなのか、キッチンにはあまり顔を出さず、男性達と楽しそうに話をしていた。
埼玉育ちの私には全く理解できない鹿児島弁で「じゃっどん」と言って兄弟たちと大笑いしている母の顔を思い出すと泣ける。

母フサエは享年62歳。私が高校生で亡くなった。
母は幸せだったのだろうか。幸せな時間はどのくらいあったのだろう。
母が亡くなる前日、食事の際に始めて母に食事を食べさせ介護した。おそらく母の意思がそうさせたのだろう。もっと母に優しくしておけばよかった。
もっと母に親孝行をしておけばよかった。

母は甘い物が大好きで、特にバナナと甘く煮た豆が好きだった。
貧乏だったのであまり美味しいご飯も食べられなかった母。
旅行も数えるほどしか行かなかったに違いない。
今、母が生きていれば高級料理店やたくさん旅行に連れて行くのだが。

私が物心つく頃には母は病弱であったため、母の立派な姿は記憶がない。
しかし昔の母を知っている人(兄弟や従兄弟、母が先生をしていた頃の生徒)の話を聞くとみんな母を心からほめる。『あなたの母親は昔すごかったんだよ』という話を何度も聞いた。
そんな母を尊敬している。
母の血が入っている自分を誇らしく思う。

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