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雲を創り、運び去る風のように

目に見えている景色や触れているものがふと「これは虚実なんじゃないか」と感じる瞬間がある。
そういう時は大抵「箱」の外からそれを眺めているような感じで「観察」している。
レイヤーが変わるというか境界線上に立ってるというか。

ここが行きすぎたり変に突き詰めたりするといわゆる「死」というものに繋がっていくのかもしれない。

とても仲良くしている友人が急逝し、その葬儀に参列してきた。
本当に突然のことで、とにかくびっくりした。

小学生の頃に祖父祖母の葬儀に参列することはあったが、当時は人が亡くなるということがよくわからず「もう会えない」ということを突然伝えられてとにかく泣きじゃくっていたと思う。

ご焼香のやり方がわからずそわそわしたり、言葉遣いや挨拶の仕方など故人への想いを馳せるよりもやることが多いんだなと思っていた。

そこから10数年経ち、ようやく自分の人生というものが朧気に見えてきた頃に、これから切磋琢磨していくであろうと思っていた親友が突然いなくなってしまった。

春分を迎え、よくわからないが「なんか良い気がする!」という確信だけがあり、日に日に色づいていく「春」にワクワクしていた矢先に。

衝撃こそ大きく、感情も理解も全く追いついていないながらも心のどこかで「そっか、そういう感じなのか」と納得していた部分もあった。

葬儀に参列し親友に挨拶した時「あ、もうここにはいないんだ」と思った。

肉体は魂の器であるということがここにきて実感として体験してしまった気がするのだ。

そんな風に思う僕は不謹慎だろうか?
親友だと言いながら泣くに泣けない僕は酷いやつなのだろうか?

でも、そこに彼はいないことがわかってしまったら、一体僕は何に手を合わせれば良いのだろうか。

実体だと思っているものが実はそうではなく、見えないところにこそなんとやらというのは使い古された表現であるが、それを身体として感じて受け止めるというのは、日々の積み重ねの先に得られる宝物のような感覚ではと思う。

気持ちが少しずつ落ち着き、冷静になるほどに、彼と交わした時間は、今この瞬間のためにあるのだという確信がどんどん強くなっていった。

命を終えるだけの理由があったのかなどと、そんなでかでかと宣言することはないが不思議と「やり終えた」ような空気がそこには流れていたような気もする。

春分という大きな節目に亡くなったと連絡が届き、葬儀のタイミングは彼の誕生日でもあった。

これではまるでこっちでの役割を全うして「あっちの世界での誕生を迎えた」みたいじゃないか。

おい、泣いたらいいのか祝福したらいいのかどっちなんだこのやろー。
ただでさえ追いついてないのに余計こんがらがるじゃあないか。

死生観なんてのは生きてる側でのルールや作法だ。
お墓も、生きてる人間のためにあるなんていう人もいる。

亡くなってしまったら終わりだなんていうが、そんなのこっちは死んだことがないんだからわからないじゃないか。

だからこそ目一杯生きるんだと思うが、目一杯生きた結果、こっちの世界での役目が終わったなんてパターンもあるんじゃないのかと思った。

そんなことを考えていたかどうかはわからない。
結果としてそうなったというだけであって、プロセスとしては「キツかった」部分も大きいんじゃないかと思うのが正直なところだ。

今でこそそう思うことはほとんどないが「希死念慮」なんてものは当たり前にあると思って生きてきた。

予定が立て込んでいないと不安で、何もない時間になることが本当に怖かった。
何かしているときは「死」というものを忘れられるからだ。

落ち着いてそれに向き合うと、隙間を縫うように「死」というものが囁いてくる。
何かのはずみで、まるで散歩に行くかのように、ふらっと。
簡単に跨げるはずの亀裂なのに、落っこちそうになることが僕は当たり前にあった。

なぜそこで毎回踏みとどまれるのか。
怖いからだ。死ぬことが。
生きるのも死ぬのも怖いが、まだ生きる方が怖くないだけなんだ。
じゃあ、前向けるようにどうにかこうにか頑張るしかないよなってここまで生きることができている。

それでも怖い。でもこの怖さは無くならない。
だから付き合っていくしかないのだ。

命の危機に陥らないと命を大事にできないのか。
大事な友人に何かがないと、会いたい人に会いにいくということができないのか。
後悔が先に立たないと、決断を改めることができないのか。

何が正解かなんて全くわからないが、僕がまだ五体満足で無事に生きていられるのは、実と虚を繋げる「身体」とそこから広がる「縁」という名の繋がりがあるからだと思った。

こんな形ではあるが、久しぶりに再開した友人がいる。
連絡を取ることはなかったが、ずっと自分のことを気にかけてくれていたと知って嬉しくなった。

故人を前に、再開を喜ぶことは少しよくないのかもしれない。
でもこれも彼が作ってくれた機会なのだと思うと、残された側はそれを頂戴して強く生きていけばいいと思う。

そして思った。
僕は最後まで「送る側」であろうと。

もし自分が死ぬことになったら、今感じてる悲しみや寂しさを周りの友達みんなが感じるということだ。

そんなの嫌すぎる。
友達泣かすより、泣かされる方が断然いい。

そうだ、代わりにたくさん泣いてやるから安心して先に死んでくれ。
そしてそこから見ていてくれ、俺の背中が大きくなっていく様を。

なんか色々託された気がする、勝手に。
実は彼の掌の上で転がっているだけなんじゃないかとすら思う。

そういうことなら一番綺麗に転がってやろうじゃないか。

ほかの人にはわからない
あまりにも若すぎたと
ただ思うだけ けれど幸せ

松任谷由実 「ひこうき雲」

「けれど幸せ」ってどっちの視点の話なんだろう。
お互いのことなのかな。

さよならなんて言わないし、親友「だった」なんて絶対言わない。
おかげさまで俺はもう大丈夫。

託されたものを磨いて、一生懸命「竹内晶貴」を極めるよ。

だから、ありがとう!!!
お疲れした!!!

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