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【ダメなものはダメ】僕が安保法制に反対するのは、理外の理によるところが大きい

よくよく対になって比較される運命にあるんだなぁと感じている言葉があって、それは「戦争」と「平和」。まるで対義語みたいに扱われてきた。

戦争は行為で平和は概念。行為と概念が対義語になったりはしない。戦争の対極は不戦・非戦だし、平和の対極は混迷とか混沌あたりになるのか。

なんにせよ、戦争という道を採ろうが不戦・非戦という道を採ろうが、何らかのはたらきで平和が乱され、混迷・混沌が訪れることはあり得る。だから「平和を守るための戦争」がナンセンスなら「平和を守るための不戦」もナンセンス。言葉遊びでしかない。

しかしながら僕は、戦争が嫌いなので不戦・非戦を願う。混迷や混沌も嫌いなので、平和を願う。だから、不戦・非戦で平和な社会を作ることを理想にしたい。この国では、僕の理想と同じことが理念として憲法に明記してあるので、心強い限りだ。

この理想なり理念を追究することの難しさはある。ゴールは遠い。でも、かすかに見えてるから、「敵対勢力よりも少しでも強く」というゴールが見えない競争よりは実がありそうだ。

だからといって、「あともうちょっとだけ誰かさんと一緒になって戦える仕組みを整備したい」なんて考えること(=平和安全法制等の整備)を全面的に否定できない側面はある。それが現実だから。一方で「もうそんな競争はやめて、僕らと同じ理想を追求してみない?」と各方面へ働きかける動きも同様にあっていいのにと感じる。

協力するなら、後者だ。前者には協力したくない。「なんとなく怖い」「どことなく変だ」という感覚や感情をぬぐい去ることができないからだ。

理想よりも現実を重んじて論理的に考えてみること。これは正しい。しかしながら、論理すなわち理屈で動かすことができない感覚や感情を重んじることも「理外の理」として正しいのではないか。

そもそも平和安全法制等の整備を目的に憲法解釈を変更しようとする動きが、厳にあった論理や理屈を飛び越える「理外の理」をもって行われようとしているわけだから、「えー!うそー!ほんとー?やだー!こわーい!」という意見が感覚的で感情的だからといって通用しないものでもない。

ダメなものはダメ。なんとも感覚的で感情的な意見であることは否定しない。そう考えていることを明らかにすると、口汚くののしられるか、「平和を叫べば戦争をしなくて済むと考えているのですか?」などとトンチンカンな問い掛けがあるかで面倒だから沈黙を守ってきたけれども、そう考えている以上は、声を大にして言っておく。ダメなものはダメなんである。

これでも何かを書き残すことを商売にしているわけだから、書かなかったことで後悔したくない。書くなら今だろう。ダメなものはダメ。

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