偶然を待って生きている。
どうやら自由意志というのは存在しないらしい。
この前あなたが食べたケーキは、実はあなたの自発的な意志ではなく、誰かの、何かの影響を受けたことによる選択である可能性が高い。
たまたま歩いていた道で焼き立てのケーキの匂いに誘われたからかもしれないし、SNSのタイムラインにオシャレなケーキが流れてきたからかもしれないし、その日は誰かの誕生日だったのかもしれない。
このように一見、自らの意思で自発的に、そして能動的に行っていると認識している事柄のほとんどは、実のところ何かの、誰かの影響を受けて、行わされているのかもしれない。
能動態か受動態か。それとも中動態か。
多くの事は能動態か受動態かのいずれかで処理されている。あなたは会社や学校に自らの意志で"来た"のか、それとも強制的に誰かに"来させられた"のか。と。
そしてそこには意志と責任が付きまとう。
自らの意志で会社に来たのなら責任を持って働けと。働かないのなら責任を取れと。
しかし、実際には自らの自発的な意志で能動的に学校や会社に”来ている”人はどれくらいいるだろうか。
休めば先生や上司に怒られるからかもしれないし、自身の社会的地位が揺らぐからかもしれないし、収入源が無くなるからという経済的理由かもしれない。
多くは能動的に自らの意思で学校や会社に行っている訳でもなく、受動的に誰かに行かせられている訳でもない。
それを國分功一郎氏は中動態と表している。
例えば、「惚れる」は一般的には能動態に分類されるが、実際には自らの意志で能動的に惚れている訳ではない。
相手が魅力的だから惚れている。
ただ、惚れさせられている訳でもない。たしかに惚れているのは、この私だし、もし相手を0から惚れさせられる事が可能なら恐怖さえ覚える。
「傘をさす」も一般的には能動態に分類されるが、自らの意志で能動的に傘をさしている人がいるのなら、よっぽどの傘好きだ。
多くは雨が降っているか、日差しが強いから傘をさすのであって、晴れた日の夜に傘をさすことはない。
このように現在、世の中のほとんどは能動態か受動態に分類されているが、実はほとんどがどちらかに分類することは難しい。
少しだけ豊かに生きるために
つまり私たちは常に何かの、誰かの、影響を無意識的に、時に意識的に受けながら今日も生きている。
多くは偶発的に無意識にそれらの影響を受けて生きているけど、
最近、私は何かの、誰かの影響を意図的に受けに行ったりする。
それは自分と似た誰かであったり、全く違う誰かであったり、本であったり、音楽であったり、映像であったり、表現であったり、食べ物であったり、コーヒーであったり、お酒であったり、着る服であったり、身に付ける物であったり、香りであったり、サウナであったり、ランニングであったり、ウエイトトレーニングであったりする。
もちろんその影響を認知できる範囲が意図的に影響を受けている範囲であって、同時に認知できていない無意識的な影響も受けている事は間違いない。
ただ、認知できる範囲であっても、こうして意図的に誰かの言葉であったり、何かの栄養素であったり、外的な刺激やストレスを加える事によって内分泌されるホルモンや幸福感的なものを少しだけコントロールできるようになると、自分の機嫌を自分でとれるようになる。そうすると少しだけ豊かに生きていける気がする。
当然、意図的な影響だけでは生きてはいけないし、偶発的な影響を期待している自分もいるし、偶発的な影響を理解しようとすることを辞めてはならないとも思う。
”これまで”を語るうえで、意図的に何かをしたり、言葉を発したりしたこともあるけれど、それと同じくらいか、それ以上に”たまたま”そこに居たり、”たまたま”誰かと出会ったことの方が人生を動かしていたりする。恐らく”これから”もそうであると思う。
ただ、偶然は意図的に、能動的に掴むことも、創り出すこともできない。
故に偶然である。だから偶然は”待つ”ことしかできない。
”待つ”は、まさに能動にも受動にも分類されない。
時に人は"偶然"を憎んだり、悔やんだりする。
時に人は"偶然"に助けられたり、敬ったりする。
不安と期待の両方を同じくらい抱えて
今日も私は偶然を待って生きている。
菅野雅之
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