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私を救ってくれ…と来たら

朝、友人と話をしていたら

ほんと、
まささんは

人を救ってあげたい

という気持ちに溢れている

と伝えてくれました!

ドキッ!!としました…

なぜなら、
救ってあげたいとは
何ておこがましい言葉だと思い

正直、気持ちが重たくなりました!(笑)

↑彼女はわざと私の痛い所を突いてます。

明らかに
相手と自分の感覚に
ギャップがありました…

ただ、
彼女を信頼してるので
何の心配もありません。

それを埋めるために
お互いに丁寧にやり取りしました…


私を救ってくれ…と来たら
私があなたを救ってあげる

救ってクレよ…
救ってヤルよ!

このやり取りは、
相手に救いを求めて
依存関係になるので
根本的な解決ではない

良くない事と
私は捉えてました。


救うに関しても…

救ってあげる

救ってあげたい

これを混同してました。


私の出来る救うとは、

目の前の人が
救ってクレよ…と来た時、

救って欲しい(クレ)という気持ちを
感じたり、理解しようとする事です。

しかし、
クレよ!と来たことに対して、
ヤルよ!としか返せないと思った時…

先程の依存関係を作る恐れから

無意識にクレよ!に対して
感じたり、理解しようとする事に
ストップをかけていました。

そして本来、
感じたり、理解しようとするのは
目の前の人を通して
自分自身に問われている課題であり

そういう意味では
目の前の人のクレよに反応するもんか!
と遮断するのではなく

目の前の人のクレよに反応しないぞ!
という自分を
どんな風に感じていたり、
どんな風に理解したいと思いますか?

と違う形で捉え直しました。

無意識に感じてはいけないと思う恐れとは、
感じることはヤルよ!に加担することだと
思っていました…

しかし、

ただ、クレよ!を
感じたり、理解しようとしたかっただけ。

恐れを無意識に否定することだろうと
恐れを感じたり、理解しようとする事だろうと

人を救ってあげたい

この気持ちから
起こっている事だったと
気づきました!

本当に救うとは、

その人自身しか救えない部分も
確かにあります!!

救ってあげたいとは、

目の前の人を感じたり、理解しようとする事

それは、目の前の人を通して
自分自身を感じたり、理解しようとする事

自分を感じ、理解する事は、
目の前の人を救う事に貢献出来る部分である。

人を救ってあげたい

それは、
目の前の人が幸せになる為にできる
自分自身が出来るお手伝いの想い

究極、自分を幸せにするのは
自分にしかできないけれども

自分の理解が深まることで
自分自身が幸せとなり、

その幸せは他者の幸せに
貢献出来る部分である!!

私を救ってクレと来たら…

クレに飲まれずに
クレを感じて、理解する事

それは相手に対して
救ってあげられる事

最後の最後は
私しか私を救えない

そこに気がつくまで
ずっと祈り続けること…(完)

#救ってあげたい
#救ってやる
#救ってくれ

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