ウ ク ラ イ ナ 戦争の使い途

 この一戦(実際は8年前の2014年からずーっと、続いてきたことなんだけど、いやいやもっともーっと前の2008年の……と言い出すとキリがない。超絶近眼視しておくことにします。不満じゃよ。ぶつぶつぶつ……)にかこつけて、日頃抱いていた「持論」を披瀝なさる方が多くて、「ポジショントーク研究」の事例が豊富で、ちょっと笑える。

 ある方はドイツが軍事費を増大させたのを「いまこそ、ドイツに倣え」とかおっしゃる。
 ある方は、いまこそ核兵器の共同管理だ、いやいや、日本独自の核武装だ、いやいやいや、いまさら遅いわ!などなどなど、ほーんと「機を見るに敏」だなあと、ちょっと感心もする。

 わたしも尻馬に……という気はあんまりない。
 というか、「市民ぐるみで反抗」とか民兵採用とか、戦時の法律をどう折り合いつける気なんだろうかとそこばかりが気になってしまう。
 戦闘員と非戦闘員とは厳密にわける、というのが第一次世界大戦のヨーロッパ人の流儀。そもそも中世ヨーロッパの戦争は貴族が偉そうに戦う、それにお手当目当ての農民が駆り出されるって格好だったらしい。近代国家の軍隊が形成される以前は古代ヨーロッパのようにローマ市民は戦争に参加する義務がある、なーんてのはいっとき廃れた。近代国家が古代ローマ文化を再発見したっていう見方もできる、かもしれません。ただし、近代国家だからこそ、戦闘員と非戦闘員とは厳密に分けよう、わけて非戦闘員が無抵抗ままむざむざ殺害(虐殺、と表現してもよいかもしれませんが、ここはやや穏当に)したりされたりするのは「よそうね」って取り決めをとりあえずした。
 それが昨今(というのはテロとの戦いが象徴的だけれど、それ以前のソ連のアフガン侵攻とかアフリカ、ミドルイーストの内戦とかからずーっと「未整理、未解決」のまま置かれてきたのだけれど)問題視され、この「内戦崩れ」な「うくらいな戦争」で、あからさまになっている、という気はします。……でも、まーた問題解決先送りにするかもね(苦笑)。「既得権」を守りたいと思う人の心はあらゆるものを「曲げる」強い力になるってそういうことでしょうか。UNも揺れてるから「変わる」可能性もないこともない、のかな。

 戦争では「戦争犯罪」や「軍規違反」が起きるのが(規律がしっかりしてない軍隊ではなおさらのこととして)通例ですが、戦闘にかこつけた市民の犯罪というものもしばしば起きるものです。どさくさに紛れてものを盗んだってバレやしねーや、ってね。あるいは気に食わねえアイツをぶっ○ろしてやる!ってこと、なきにしもあらず。日本の日本人だったら災害の動乱も戦災も犯罪は起きづらい(全くなわけでもないらしい)。人の目もある。「おてんとう様がみてる」っていう内面の倫理もある(たぶん)。でも日本でない土地で、日本人がいないとなれば、なかなか「人の目を気にして」とか「おてんとう様」とか通用しない。
 戦時における「人間」の取り扱い、あるいは補償や保護、保証についての国際協調を含めた人道支援、救命(赤十字とか)のある程度独立国家に対する「強制力」を伴ったなんらかの取り決めが求められるようになる、なってほしいな、って願っています。

 とりとめのない作文、これにておしまい。

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