ゲシュタルト崩壊というものがあるらしい

 そうかい、そうかい……「ほうかい、ほうかい」って書いたら意味が通じなさそう。

 ぶっちゃけ、文字列や言葉、記述やセリフと自分のどちらを優先するかと云えば、わたしはわたしを優先する。当たり前。
 言葉信仰だの言霊信仰だの、「アホか」。言葉は人を騙して搾取する詐欺師御用達の、詐欺師に重宝なツールでしかない。
 「意味喪失」以前に、さほど、元から、信用がない。わたしにおいては。

 だから「ゲシュタルト崩壊」がわからない。漢字の書き取り、大嫌いだったしね、ガキん頃。
 書き取りに文句をつけるなら、必要なら繰り返し書くからいつの間にか覚えるものだし(自分の名前なんて学校でその漢字を習う以前に書けたりするじゃん?)、覚えないってことは実際に繰り返し「使ってない」ってことでしょ。だから「アホらし」。

 じっと見つめて、あるいは繰り返し書いて、ようやく「意味喪失」するんだったら、最初から「意味との関連付け」なんてもんが「無かった」だけでしょ。
 道具というものは利便に基づいて繰り返し使用される。だから言語も「道具」の一個でしかない。便利さとは、いっとき「意味を代替してくれる」ってところにあるんじゃん? そんだけだと思う。

 なーに、たかだか「人間の発明品」に夢を投影しちゃってんだよ、っておはなしだと思う。

 人間は「万能」とか「完全」とか、そんなものを何かに期待して、何かに「投影(心理学用語)」して、うっかり失敗(しくじ)って、それがすべてと思い込む。端から見てて良い暇つぶし、道化、娯楽と嗜む悪趣味(「と学会」っぽい嗜み)は、ひとつあるとしても、無自覚に踊る側に立てば、踊ってる阿呆の親族や友人知人で心底心配する立場や当人としては、「夢から醒めよ」と、『Fate/zero』のライダーさんがセイバーさんを諭すシーンに重なる。って喩えたら逆に伝わらんか(苦笑)。

 言葉、さらに云えば「コミュニケーション」は、人間社会における「不器用な道具」だ。『機動戦士ガンダム』で唐突に出てくる「ニュータイプ」概念、ダイクン思想は富野喜幸(現、富野由悠季)監督の個人の抱える懊悩の表出だったにしても、多くの人の共感や理解が後追いした、という事実は興味深い。「みんな、悩んで大きくなった!」ってむかし野坂昭如さんも唄っておられましたし。

 だからこそ、言語表現とそこに込められた意味なんぞよりも、わたしはわたしを優先する。
 傲慢に感じられる言い回しだろう。でも実際、主観・主体であるわたし(このわたしは、個人それぞれにとっての主体としての「わたし」だ。わたし個人は他者のことを永遠に絶対には知り得ない。なぜなら「俺はお前じゃないからな」の『ブラックラグーン』ロックさんのテーゼ(苦笑)があるからだ。でも逆にだからこそ、ひとは会話を繰り返し、寄り添って互いに理解しようと試みる。共感は寄せ合えても分かり合えはしないんだけど。理論からオチに向かって線を引くなら)はわたしの全てだ。人間死んだらそこでおしまい。その意味で「わたし」だけが実在し実存するって言い回しは決して傲慢でも驕り高ぶった気持ちからくるものでもない。たんなる現実、事実の描写に過ぎない。

 ……つーことで、夢をみたり、白昼夢をみたり、幻みたり、ありもしない声や音を聞いたり、ありもしない触感で首締められたり足掴まれたりするとしても、わたしが唯一頼れるのはわたしの他には何もない。そういう諦めだか覚悟だかよくわからないが、そんなとこから眺めれば、「意味喪失」がなんぼのもんじゃい! って笑い飛ばして仕舞えるんじゃないかな、って思います。
 個人の感想(笑)。個人の感想で何が悪いんじゃい(笑)。

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