ウソをつく技術

 絵画は、ウソをつく技術である。
 絵にえ(描)がかれた白黒の林檎が、林檎の実物だとは誰も思わない(はずだ)。肖像画は、その主人が別にいるのが通例だ。歴史を刻み主人の方が死亡消滅した後も上手くすると肖像画の方は後年に残る、ただそれだけだ。

 Art は単に「技巧」を意味するそうだ。
 日本語だとカタカナ表記「アート」は、何かしら”高尚なもの"で、「美を極める」ような印象が強いかもしれないが、本質は「詐欺師」の「技術」だ。"手品"みたいな「お慰み」の術なのである。

 とか、書いたところで小・中学生時代の、わたしの下手クソすぎる(構図がおかしい)写生作品を弁護し擁護し「これぞ芸術なり!」とか言える訳もない。術もない。

 わたしは「絵をえが(描)く」という、「ウソをもっともらしく"思わせる"技術」の習得に失敗したのである。

 一方、「言葉」の方は……こっちもなんか「失敗気味」っぽい。
 幼少期からテレビに子守りをしてもらった都合もあってか、けっこう、「言語表現」には精通している"つもり"で、この方、生きてきた。けど、こっちも、なーんか、ダメっぽです。

 ご覧の通りに(苦笑)。

 絵画筆致に絶望し、デジタルカメラとかカメラ撮影の方向に可能を見い出したものの、そちらもなんだか頭打ち。
 つまるところ、ウソはウソでしかない。ウソはウソでしかありえない、ですから。

 とはいえ、昔新聞の日曜版の「大判絵画」でみた「合掌」の図(たしか木炭とか鉛筆がきのモノクロだった気がする)は、原画のサイズは知らないけれど、「存在感」を感じる "ウソ" だった。ひとが、ひとの作品を見る、鑑賞するって意義をそこに見い出すことが出来る……のか? あからさまなウソだけれど、たしかにその作品にわたしはあの時、感動したのだった。

 ウソが何かを伝えるのなら(言語はその表現形式全部がウソの塊である)ウソはウソでも価値があり意味があり、絶対に交遊できない「他人」同士が誤解・誤認識・受け手の思い込みなど込みで、「なにかしら」を伝える、伝えられるという点で、ヒトという生物個体が否応なくすがる「ウソ表現技術」なのだろうなあ、って思う次第。

 「論理学」とかっていうけど、そもそも「論理学」をえがき(描き)出す道具そのものが「論理が破綻している」のです。だから、ひとつ「諦めろ」って思う。「諦める」んだけど、それでも、(きわめて限定された条件の下では、理論破綻が露見しないってこともあるので)、ヒト・人間の「都合の良い道具」として、「ウソをつく技術」は今後とも、有用に、当面の利便のた"だけ"に使われ続けていくことでしょう。……わたしの死んだ後のことは見届けられなくて(わたし自身の好奇心が満たされないってことも含めて)残念だけれど、「これまで」どうよに「これから」「この先」「先の果て」も、ヒト・人類がある限りは「相似」が続いて行く、という予想を変える要素はどうやらなさそうに思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?