何か強大なものと闘っている……というポーズ

 ……だから「活動資金を寄越せ」ってな感じ……馬鹿馬鹿しいよね。

 相似に感じる二つのことを指摘したいと思います。

 敗戦後日本で、「リベラル」と自認されたり「マルクス・レーニン社会主義共産革命万歳!」を実践する「ふり」の方々にとって、当時(今もおそらくは)「堅牢」に見えた昭和天皇裕仁様の打倒は「到底勝てない、勝ち得ない」敵として、まことに都合よく「目の前にあった」からこそ、「打倒天皇制」(天皇「制」なんてものは実在しません。日本共産党及びその系統の方々の「妄想」創作です。実のところ「制」ってしてしまったから、日本共産党及びその系統の方々も「天皇制」って概念の「内側」に組み入れられている……敵対し打倒し打破するには「身の外」に要素や形成する人々を「追い出」さねばならないのに、当初から自身をも敵視するその中に「組み入れ」てしまっている。まことに「賢いばかげた」お振る舞い、でございます)と、「その場しのぎ」でぶち上げることが出来たようです。

 第二次安倍晋三政権のおり、「リベラル」を自認されておられるらしい方々は安倍晋三総理大臣(当時)を敵視し、罵詈雑言を浴びせかけてました(ファンタジー作家の浜矩子先生とか、面白いように新書薄い本を上梓なさっておられる。よほど「需要」があったとみえます)。

 古い時代、昭和の前半とか、「日本敗戦後」あたりで盛んであった「天皇『制』打倒」の景色は、平成の後半期において「安倍晋三を何が何でも引き摺り下ろす」という勝利なき「いま、出前、やってます」なポーズの「有事法制・反対」や論拠皆無「もり・かけ・さくら」"問題"(問題以前に事実が「無い」ネタ)の、「リベラル」自認の方々の「仕事(とりあえず)やってます」アピールは、はて、「誰」に向けての「なに」だったのでしょう。リベラル神か「マルクスレーニン社会主義共産主義」神への供物か捧げる「祈り」だったのでしょうか。「思想」って「大衆のアヘン」いや、思想を信じ奉じる人々にとっての「神との合一(不成立)」って、空騒ぎ、バカっ騒ぎって内実だったのだと理解すべき事柄なのでしょう。

 人はかくも「愚か」です。

 そうしてどうやら人はかくも「愚か」なまま一生を終えることの多い「個体存在」であるようです……ナメクジのほうがまだマシ、まだまだ「意義ある」一生であるのかもしれませんね。知らんけど。

 ……駅前でビラを配る(こっちをちゃんと見てないっぽい)(ナメクジ以下な)高齢者をお見掛けすると、つくづくと「人の一生とは何か」と考えさせられます。ま「生き方」は人それぞれだし、価値とか意味とか自慢するために人は「生きて死ぬ」訳でも無いんだから、そっとしておこうってのは一つの答えでしょう。世間様に実害がないって限りにおいては。

 人生にはおおむね「罠しかない」です。それに人生には「失敗しか用意されていない」です。どの道を行っても挫折と失望と、最終的に「死ぬ」ってことしかありません。うへー。なんてこったい。だから、まあ、せいぜい、「まし」に「まとも」に、出来るなら「善」であろうと「生きる」より他はないらしい。なんだかなあ。なんだかなあだけど、クソの手下にならぬように、ウンコの片棒担がぬように、そういう心配と懸念とを心に刻み置いて振る舞うなら、ま、たぶん「いい死に方」が望めるんじゃ無いかなって(無根拠に)気がします。

 「充実感」があるときは気を付けて。それはまやかし、嘘な充実かも知れないよって、怪しむくらいの「余裕」や余地で生きた方がよろしいかもしれませんよ、と助言だけしておきましょう。

(どう「くたばって」も自己責任。所詮「人生」の責任は当人にしか担えませんし)

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